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第84話

 ──それは、数ヶ月前のことだった。  ラビスリは、国の端でひっそりと身を潜めていた。  獣人と人間が共に暮らすこの国で、自分のような者に居場所などない。そう思い知らされてきた日々だった。  ある日、訪れた村で、彼は耳にした。 「……また獣人だ……! 前にも来たんだ、あの狼の──軍を連れて」  その言葉に、ラビスリの耳がぴくりと動く。 「忌み子を連れて行ったんだ! もう忌み子はいねえぞ!」  その一言が、点と点を繋いだ。  忌み子──名を言われずともわかった。アザールの番、エル。  どこにいた。親はどこだ──問い詰めれば、村の隅に、貧しい身なりで暮らす中年夫婦がいるという。  その瞬間、ラビスリの胸に確信めいた思いが芽生える。  これは、運命だ。    ──自分は、家族を失った。  人間にすべてを壊された。  それなのに、なぜ──アザール様の隣には、人間がいる?  なぜ、忌み子が、愛されているのか。  ラビスリは過去を埋めるように、ただひたすら仕事に打ち込んだ。  アザールに尽くしてきた。心から、忠誠を誓ってきた。  それでも──アザールも兵たちも、自分の痛みには気づいてくれなかった。  寄り添ってはくれなかった。  代わりに大切にされたのは、あの人間だった。  その事実が、許せなかった。  そしてつい先日、エルがアザールとの子を成したと聞いた。  獣人と、人間の子。ラビスリの中で、憎悪が膨れていく。  ラビスリは決めた。  エルだけは、許さないと。  ──そして、両親もまた醜悪だった。金と保身だけを見て生きている者たちだった。 「うまくいけば、金をやる」  そう囁くだけで、人間は頷いた。  我が子を捨てた者たちだ。今さら、子を傷つけることに躊躇などない。  こうして、ラビスリの計画は動き出す。  両親に数日間、アザールの屋敷へ滞在させ──その間に鍵の形を取らせた。  そして夜。屋敷の者たちが眠り始めた頃、裏口の鍵を開け、忍び込む。  巡回していたリチャードの姿が見えた瞬間、ラビスリは奥歯を噛み締めた。  ──あいつも、あの人間の味方だ。  音もなく背後に忍び寄り、「リチャード」と声をかける。  彼が振り返った、その腹に、隠し持っていたナイフを突き刺した。 「っ、……ラビ、スリ……?」  名を呼びながら、リチャードは膝をつき、床に崩れ落ちる。  荒く呼吸をする彼を、ラビスリは無言で見下ろした。  そして、ただ一つの目的のため、静かに歩き出した。 ◇  エルを見下ろしながら、ラビスリは先ほどリチャードを刺したナイフを、服の袖からゆらりと引き抜いた。  銀の刃が月明かりに鈍く光る。  エルは静かに目を見開き、その刃先から目を離せなくなる。 「なぜ……人間が……っ!」 「っ、ん、うぅっ!」  口を塞がれたまま、必死に手をバタつかせる。  なんとか振りほどこうともがくが、力は入らない。  覆われた口からはくぐもった声しか漏れず、大きな助けの声を上げることもできない。  ──助けて。アザール、たすけて……!  胸が苦しい。  体が動かない。  お腹に宿る命が、何よりも今、守らなければならないものなのに。

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