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第85話

 切っ先が、キラリと光る。  フーッ、フーッ──ラビスリの荒い息遣いが耳元で響き、エルは全身で暴れようとするも、思うように力が入らない。  バタバタと手足をもがき、口元からはかすれた呻き声が漏れる。  その中で、振り上げられたナイフが、まっすぐに振り下ろされる。  それは、なぜかやけにスローモーションに見えた。  来るはずの痛みに、目をぎゅっと強く閉じた、その瞬間── 「──エルッッ!!」  アザールの声と骨同士がぶつかるような鈍い音が聞こえたのと同時、体に覆いかぶさっていたラビスリの姿が消えた。  代わりにふんわりと大好きな香りに抱きしめられる。  何が起こったのか、エルには分からなかった。  ただアザールに抱きしめられていることだけは理解できた。  遅れて震えだした体。アザールの腕を掴んで荒い呼吸を整えていく。 「貴様──ッ、ラビスリ……!」 「っ、」  アザールの怒声に、ラビスリは身を竦めた。  彼の威圧に、まともな獣人なら膝を折る。  だがラビスリの目は、すでに狂気で濁っていた。 「なぜ、獣王軍の将軍であろう貴方が、人間のために……そこまで……っ!」  苦しげに吐き捨てるように言いながらも、ラビスリは隙を窺っていた。  アザールの視線がエルに向いた刹那──それを見逃さなかった。 「許さない……!」  伏せていた体を跳ね起こす。  その手から、小さな刃が抜き放たれる。  アザールは瞬時に気が付き、咄嗟に腕の中のエルを庇うようにその身を捻った。  直後、深く、肉を裂く音。  ズシャッ──と刺さったのは、アザールの背。  ナイフの先が深々と突き立ち、瞬間、彼の体が小さく震えた。 「っ……あ、アザール……?」  信じられない、とでも言うように、エルが顔を見上げる。  アザールは眉をひそめながらも、ぎゅっとエルを強く抱きしめ直した。 「大丈夫だ」  静かな声。けれど、どこか苦しさの滲む声だった。  エルの手のひらが、アザールの背に触れた瞬間──ぬるりと温かい液体が指先を濡らす。 「ちが……これ、血……っ! アザール、アザール!」  叫ぶ声は涙に震え、喉が詰まる。  アザールの大きな体が、ぐらりと揺れた。  そこへようやく駆け込んできた兵たちが、ラビスリを押さえつける。 「アザール様! ご無事ですか!」 「医師を呼べ!! 早く、止血を──!」  緊迫した声が飛び交う中、アザールはゆっくりと息を吐く。  それでも、エルを抱きしめたまま離さなかった。 「すまない……怖かっただろう。もう大丈夫だから……泣かなくていい」  そんなふうに、優しく微笑もうとする。  けれど、血が止まらない。手のひらに広がっていく赤に、エルの震えは止まらなかった。 「だめだよ……! だめ、死なないで……アザール……っ」  どこかから医師が呼ばれ、騒然とした声の中で、エルは初めてはっきりと言葉にする。 「お願い……っ、アザールがいないと、生きていけない……!」 「……っ……エル……」  言葉にならない想いが溢れ、それは涙となってアザールの頬に落ちる。  僅かに汗ばみ、呼吸を乱しながらも、アザールはエルをそっと見つめた。 「泣くな……お前の前で、倒れたりしない」  かすれる声で、そう呟くと、アザールはぐっと歯を食いしばり、足に力を込める。  血に濡れた背をそのままに──それでも、エルを腕に抱いたまま、ゆっくりと立ち上がった。  兵たちの間に、ざわめきが広がる。 「アザール様……!」 「早く治療室へ──!」  誰かの叫びが飛ぶなか、アザールは一歩、また一歩と歩み出す。  痛みを感じているはずなのに、不思議とその背は大きく、揺るがなかった。  エルはその胸にしがみつきながら、震える声で囁く。 「……アザール……絶対、死んじゃ、やだよ……」 「ああ。こんなことで、死にやしない」  そんな彼の声は、弱っていたはずなのに、エルには誰よりも力強く感じられた。

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