85 / 100
第85話
切っ先が、キラリと光る。
フーッ、フーッ──ラビスリの荒い息遣いが耳元で響き、エルは全身で暴れようとするも、思うように力が入らない。
バタバタと手足をもがき、口元からはかすれた呻き声が漏れる。
その中で、振り上げられたナイフが、まっすぐに振り下ろされる。
それは、なぜかやけにスローモーションに見えた。
来るはずの痛みに、目をぎゅっと強く閉じた、その瞬間──
「──エルッッ!!」
アザールの声と骨同士がぶつかるような鈍い音が聞こえたのと同時、体に覆いかぶさっていたラビスリの姿が消えた。
代わりにふんわりと大好きな香りに抱きしめられる。
何が起こったのか、エルには分からなかった。
ただアザールに抱きしめられていることだけは理解できた。
遅れて震えだした体。アザールの腕を掴んで荒い呼吸を整えていく。
「貴様──ッ、ラビスリ……!」
「っ、」
アザールの怒声に、ラビスリは身を竦めた。
彼の威圧に、まともな獣人なら膝を折る。
だがラビスリの目は、すでに狂気で濁っていた。
「なぜ、獣王軍の将軍であろう貴方が、人間のために……そこまで……っ!」
苦しげに吐き捨てるように言いながらも、ラビスリは隙を窺っていた。
アザールの視線がエルに向いた刹那──それを見逃さなかった。
「許さない……!」
伏せていた体を跳ね起こす。
その手から、小さな刃が抜き放たれる。
アザールは瞬時に気が付き、咄嗟に腕の中のエルを庇うようにその身を捻った。
直後、深く、肉を裂く音。
ズシャッ──と刺さったのは、アザールの背。
ナイフの先が深々と突き立ち、瞬間、彼の体が小さく震えた。
「っ……あ、アザール……?」
信じられない、とでも言うように、エルが顔を見上げる。
アザールは眉をひそめながらも、ぎゅっとエルを強く抱きしめ直した。
「大丈夫だ」
静かな声。けれど、どこか苦しさの滲む声だった。
エルの手のひらが、アザールの背に触れた瞬間──ぬるりと温かい液体が指先を濡らす。
「ちが……これ、血……っ! アザール、アザール!」
叫ぶ声は涙に震え、喉が詰まる。
アザールの大きな体が、ぐらりと揺れた。
そこへようやく駆け込んできた兵たちが、ラビスリを押さえつける。
「アザール様! ご無事ですか!」
「医師を呼べ!! 早く、止血を──!」
緊迫した声が飛び交う中、アザールはゆっくりと息を吐く。
それでも、エルを抱きしめたまま離さなかった。
「すまない……怖かっただろう。もう大丈夫だから……泣かなくていい」
そんなふうに、優しく微笑もうとする。
けれど、血が止まらない。手のひらに広がっていく赤に、エルの震えは止まらなかった。
「だめだよ……! だめ、死なないで……アザール……っ」
どこかから医師が呼ばれ、騒然とした声の中で、エルは初めてはっきりと言葉にする。
「お願い……っ、アザールがいないと、生きていけない……!」
「……っ……エル……」
言葉にならない想いが溢れ、それは涙となってアザールの頬に落ちる。
僅かに汗ばみ、呼吸を乱しながらも、アザールはエルをそっと見つめた。
「泣くな……お前の前で、倒れたりしない」
かすれる声で、そう呟くと、アザールはぐっと歯を食いしばり、足に力を込める。
血に濡れた背をそのままに──それでも、エルを腕に抱いたまま、ゆっくりと立ち上がった。
兵たちの間に、ざわめきが広がる。
「アザール様……!」
「早く治療室へ──!」
誰かの叫びが飛ぶなか、アザールは一歩、また一歩と歩み出す。
痛みを感じているはずなのに、不思議とその背は大きく、揺るがなかった。
エルはその胸にしがみつきながら、震える声で囁く。
「……アザール……絶対、死んじゃ、やだよ……」
「ああ。こんなことで、死にやしない」
そんな彼の声は、弱っていたはずなのに、エルには誰よりも力強く感じられた。
ともだちにシェアしよう!

