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第88話

 アザールは目を覚ますと、傷の具合をざっと確認し、迷いなく起き上がった。  その動きにギョッとしたエルは、すぐさま止めようとする。 「アザール、ダメだよ! まだ寝てなきゃ……!」 「いや。やることが山ほどある」 「でも……アザールっ、ぅ……!」  途端に、エルが口元を押さえて俯いた。 「エル!」  怒涛の夜を越えたばかりで、エルは自分の体調に気を向ける余裕もなかった。  けれど──お腹には、もう一つの命がある。  忘れていたつわりが、突然戻ってきたのだ。  床に座り込んだエルは、呼吸を乱しながら苦しげにうつむく。 「大丈夫か。吐き気か?」 「っ……ふ、ぅ……アザール……ねえ、行かないで……」  心も体も、限界だった。  目の前で、番である彼が刺され、自分も殺されかけた。  その恐怖は、まだ体の奥に居座っている。  アザールはエルの背にそっと手を添え、静かに抱きしめた。 「すまない。……焦っていた。もう行かない。俺はここにいる。どこにも行かないよ」 「……アザール……」 「ああ、大丈夫だ」  エルは彼の胸元に顔を埋め、ぬくもりに安堵する。  頬を撫でる大きな手に導かれるように顔を上げると、アザールの目が、やわらかく細められていた。 「何よりもまず、エルと、お腹の子を守らなくてはな」 「……ありがとう」 「当然だ。それなのに、すまなかった」  しばらくそうして寄り添っていると、少しずつ吐き気も落ち着いてきた。  そのタイミングで、控えめにノックの音が響く。  アザールが声をかけると、シュエットが現れ、丁寧に頭を下げた。 「お食事をお持ちしました。こちらの部屋で、ゆっくりとお召し上がりください」 「ああ。……ところで、今はどうなっている?」  アザールはそう尋ねながら、フルーツをひとつ手に取り、エルの口元へ差し出す。  エルは少しだけ迷ったあと、ぱくりとそれを食べ、じんわりと甘さが広がったことで、自然と頬がゆるんだ。 「ラビスリですが……エル様のご両親の手引きにより屋敷へ侵入したようです。三人は、レオン王子の手で王城へ連行されました」  シュエットの報告に、エルはふいに俯いた。  アザールはそんな彼の背をそっと撫でる。 「そうか。あとで王子を訪ねる。連絡を入れておいてくれ」 「かしこまりました」 「ほかに怪我人は?」 「リチャードが。巡回中に刺され、現在も眠ったままです」  フルーツを食べていたエルは、目を見開いてシュエットを見つめた。 「呼吸は安定しております。傍にはレイヴンがついております」 「……そう、なんだ……」  ぽつりと呟くと、エルはアザールの服の裾をきゅっと握った。 「アザール、ごめん……僕が、あの人たちを……泊めてほしいって、言ったから」  その声は、かすかに震えていた。  あの夜、自らが願った優しさが、結果的に誰かを傷つけてしまった。  その思いが、胸を締めつける。 「僕のせいで……みんなが、こんな……」  エルの手を、アザールは静かに取った。 「違う。お前は何も悪くない」  その声は、ただ優しく、まっすぐだった。 「人を信じて、助けようとした。──それは、お前が優しいからだ。誰がそれを責める? ……俺は、誇りに思ってる」 「アザール……」 「許しや善意を踏みにじったのは、あいつらだ。エルじゃない」  そう言って、アザールはそっと彼の額に唇を落とす。  そのキスには、ただ強くて静かな愛情が込められていた。

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