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第90話
エルはしばらく黙ったまま、指先でアザールの手をそっと撫でるように握っていた。
迷っているわけではなく、自分の気持ちを言葉にするまでに、ほんの少し時間が必要だった。
やがて、ゆっくりと顔を上げて、まっすぐにレオンを見つめる。
「……僕は、もう……二度と、あの人たちとは会いたくない……」
「……」
「なんとか歩み寄ろうって、頑張ったけど……こんなことになっちゃった。……大切な人を、傷つけられて……悲しい。自分だけなら、まだ良かったけど……。心が、ぐちゃぐちゃになっちゃいそう」
「……」
「だから、もう会いたくない。アザールにも、他の誰にも、僕の大切な人には、もう会ってほしくない。それだけ……です」
エルの声は震えていなかった。
静かで、でも確かに芯の通った言葉だった。
その表情に、嘘や感情の誇張は一切なく、ただ正直に、自分を、皆を守るための意思を伝えていた。
「……わかりました」
レオンは目を伏せ、一度だけ小さく頷く。
「エルが望むように致しましょう。処分は、法に則って厳正に進めます。安心してください」
「……ありがとう」
エルがそう呟いた時、アザールがそっと彼の肩に手を置いた。
その手の温もりが、彼の決意を肯定するように優しく伝わってくる。
それを感じながら、エルはもう一度、目を伏せた。
──これでいい。
ただ、誰にも、これ以上傷を増やしたくないだけ。
そしてなにより、お腹の子にも、これからは穏やかな時間を与えたかった。
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