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第94話
季節は進み、雪が静かに降り続く、白銀の朝。
空は鈍色に沈み、世界はしんとした冷気に包まれていた。
その静寂を破ったのは、エルの荒い息と、微かに漏れた苦しげな声だった。
「……っ、アザール……っ……」
寝台の上、丸くなったエルの身体が震えていた。額には玉のような汗。片手は布団を握りしめ、もう片方の手が、震えるようにアザールへと伸ばされる。
「エル……!?」
目を覚ましたアザールは、その様子を見た瞬間、血の気が引く思いだった。
寝間着の下で膨らんだ腹が、わずかに痙攣するように動いている。間違いなかった。
「……来たのか……?」
問いかける声が、ひどく掠れている。
「わからない……でも、痛い。ずっと……引っ張られるみたいな……」
それだけ言うと、エルはぐっと唇を噛みしめ、苦しげに目を閉じた。
アザールはすぐさまベッドから降り、扉を開けて怒鳴る。
「シュエット! 医師を呼べ! すぐにだ!」
「かしこまりました!」
控えていたシュエットが駆け出し、すぐに廊下を忙しなく人々が走る音が響きはじめる。
アザールはその間も、エルのもとを離れなかった。
腹にそっと手を当てる。いつも感じていたぬくもりの裏で、今は激しい力が波打っていた。
「……怖いか?」
問いかけに、エルはうっすら目を開け、小さく頷いた。
「うん……。僕、ちゃんと……産めるかな……。子ども……大丈夫かな……」
その声は小さく掠れ震えていた。
アザールはその手を握り、そっと額に口づけを落とす。
「大丈夫だ。お前も、子どもも。俺が傍にいる」
「……アザール……っ」
扉が開き、医師と看護師が駆けつける。
部屋は一気に緊張した空気に包まれた。
「すぐに横にならせて、状態を診るからね。アザール様、動揺されているとは思うけれど、妨げになるようなら一度出てもらうからね」
「……ああ、わかった」
医師は頷き、手早く準備に入った。
下腹部の診察が行われ、やがて小さく呻くエルの傍らで、医師が深く眉をひそめる。
「初産に加え、男性体。通常よりも時間がかかるかもしれないね」
「……危険なのか?」
アザールの問いに、医師は一瞬ためらったあと、静かに答えた。
「安全に進められるよう最善は尽くすさ。ただし、覚悟は必要だよ」
アザールは喉の奥で小さく唸るような声を漏らし、エルの傍らに戻る。
「エル……痛みは? どこが一番……」
「っ……だいじょうぶ。……耐えられる……」
絞り出すような声。それでも叫ぶことはなかった。
ただ、眉間に深く皺を寄せ、堪えるように大きく息を吐く。
時間の感覚が曖昧になるほど、長い陣痛が続く。
看護師たちが布を交換し、ぬるんだ湯を取り替え、清潔を保つために走り回っていた。
「エル、呼吸を整えて。ほら、俺と一緒に──ゆっくり、吸って、吐いて」
アザールは何度も何度も、その手を握って呼吸を合わせた。
「……んっ……アザール……」
「ああ。もう少しだ。頑張ってくれ」
夜が明ける頃、医師の声が鋭く響く。
「頭が見えたよ! エル様、最後にもう一回!」
「っ……!」
エルの手がアザールの腕に爪を立てるほど力強く掴んだ。
「エル、しっかり! 大丈夫、もうすぐだ──!」
「……んんっ……!」
息を詰め、全身を振り絞るように、エルはひときわ深く息を吐いた。
その瞬間──響いたのは、産声。
ふっと、エルの体から力が抜ける。
アザールは強く握っていた手を少し緩め、安堵の息を吐いた。
しかし次の瞬間、医師の声が鋭く響く。
「もうひとり……! エル様、まだいるよ!」
「……っ、まだ……?」
驚きにうっすら目を開けたエルの頬に、アザールがそっと手を添える。
「エル。もう一度だけ力を貸してくれ」
荒い呼吸を整え、エルは再び力を込めた。
わずかな間が永遠のように長く感じられる。
アザールは額の汗を拭い、何度も励ますように頷いた。
「……っ……ん……!」
そして──二度目の産声が、雪降る朝の静寂を破った。
エルは涙に滲む目でアザールを見上げる。
アザールの瞳も潤み、大きく見開かれていた。
「……双子だ……双子だぞ、エル……!」
「え……本当に……?」
大粒の涙がアザールの頬を伝い落ち、ふたつの小さな命の泣き声が重なって響き渡った。
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