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八話 熱に浮かされて
翌日、いつもなら出席する授業に、泉が来なかった。泉のいない教室は、ピースの欠けたパズルのようで、落ち着かない。
泉が風邪をひいたらしいと教えてくれたのは、滝だった。こういうとき、俺に連絡してこないのは、泉らしい。
泉は俺の全てを受け入れるのに、俺に渡すものは一つもない。
「こんな時期に風邪か」
「最近、寝不足っぽかったもんなー」
寝不足の原因は俺なので、なんとなく口を挟みにくい。
(そういや、昨日熱かったっけ)
クチの中も、腹の中も、熱かった気がする。その上、三回もナカに出した。無理をさせたのかも知れないと、少しだけ胸がチクリとする。
「土産渡そうと思ったのになぁ」
「日持ちする?」
「明後日まで。来るかな」
「食っちまえば?」
「櫻井……お前はほんっと、クソ野郎だな」
藤木が軽蔑した顔をする。冗談じゃん。半分くらい。
滝が「まあまあ」と苦笑する。
「櫻井、木嶋の近所だろ。見舞いついでに渡してくれない? 様子、見に行ってあげなよ」
「は? なんで、俺が」
「幼馴染みだろ」
「そーだ、そーだ。たまには優しくしてやれよ」
「……」
俺が泉に素っ気ない態度なのは、二人も解っているらしい。本当は、毎日のように抱いているんだと言ったら、どんな顔をするんだろうか。
◆ ◆ ◆
学校を終えた俺は、仕方がなしに泉の家へと向かった。大学に入ってから、俺も泉も一人暮らしだが、俺は泉の家に行ったのは一度だけだ。大抵、泉のほうが、俺の部屋に来る。
(でも、合鍵は持ってんだよな)
泉の合鍵は、彼の両親から頼まれて渡されたものだ。泉に渡されたのならば、理由をつけて受け取らなかっただろう。互いの関係は『幼馴染み』。世間じゃ、ずっとつるんでいる仲の良い二人に見えているはずで、助け合っているようにも見えるのだろう。
路地を折れて、泉のアパートを目指す。俺のアパートから、徒歩五分。四階建てのアパートは、二階にある泉の部屋からは見えないが、四階の廊下から俺の部屋が見えるのを知っている。
泉の部屋のチャイムを鳴らし、返事がないので、溜め息とともに鍵を回した。
部屋の中は、泉の匂いに溢れていた。濃密な空気に、胃の辺りが重くなる。
シンクには洗っていないカップとコンビニ弁当のゴミが残ったままだ。締め切ったカーテンと、薄暗い部屋。
(寝てんのか?)
部屋の中は、静かだった。生活音はなにもなく、しばらく空気が動いていないような、籠った感覚。寝室の扉をそっと開け、中を窺った。
泉はベッドの中で、布団にくるまっていた。耳を澄ませば、少し苦しげな寝息が聞こえてくる。
「―――泉……」
ベッドに近づき、額に指の背で触れる。やはり、熱い。額に張り付いた髪を払ってやりながら、薄く開いた唇を見る。
苦しげな呼吸を漏らして、胸が上下している。桜色の唇は、僅かにかさついていた。
「……っ、ん」
泉が寝返りを打つ。首に引っかけられたままの銀の鎖が、チャラと音を立てた。
このまま、外してしまおうか。
一瞬、そんな考えが過る。
泉を繋ぐこの鎖がなければ、この歪な関係も終わるかもしれない。泉は正気に戻って、俺なんかと一緒にいようとは、思わないかもしれない。
どくん。心臓が鳴る。
指先を、首に伸ばす。
銀色の。シルバーでさえない、安物のネックレス。メッキが剥げて、錆が浮いている、お粗末なアクセサリー。
鎖に触れる。体温のせいで暖まっている鎖は、引っ張れば切れてしまいそうなほど、細くて弱々しい。
その程度の関係なんだと。その程度の重さなのだと。泉は理解していない。
ゴクリ、喉を鳴らす。
鎖を外そうと、金具に手を掛ける。
「……き…、ん」
泉の漏らした声に、ビクリとして指を離した。
「好……き、大胡……」
「―――」
「大胡……、ん」
引っ込めた手を、そのままぎゅっと握る。
泉の眦から、スゥと涙が零れた。
「……どんな夢、見てんだよ…」
熱に魘されながら見る悪夢は、お前にどんな夢を見せているんだろうか。
俺は泉の涙も言葉も、見ないふりをしてタバコに火をつけた。
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