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十話 劇薬
時が巡るのは速い。彼女と別れて一か月が過ぎようとし、泉との関係も一か月続いている。泉の風邪はすっかり良くなったらしく、大学生活は相変わらずだった。
「なんか、最近暑いよね。クーラーまだ着けないのかな」
「マジでそれな。窓側じゃねえと風来ないのに、陽射しが暑すぎる」
ノートで顔を仰ぎながら、シャツをパタパタさせる。じっとりと汗ばむ肌が不愉快だった。泉は暑いと言いながら、涼しげな顔をして、鞄から文庫本を取り出して捲っている。
泉の横顔を眺める。人形のように無機質な、シミのない肌。俺のとなりに座っていても、いつも通り、変わらない。それこそ、高校のときから、泉はずっと変わらない。
(まあ、そもそも、覚えてないのか)
熱に浮かされて、普段なら絶対に言わないようなことを、口走ったことなんて、きっと泉は知らないのだろう。
俺が訪ねないあの部屋で、泉はいつも何をして過ごしていたのだろう。俺に女がいる間、泉は何をして。何を考えて過ごしていたんだろうか。
考えてもいなかったことを、知ろうともしていなかったことを、今更ながらに考える。
机に肘を着きながら、泉の横顔を見る。
「面白い?」
「面白いよ。芥川賞候補の作者だし、上手いから」
「ふうん」
「興味ないくせに、どうした?」
泉が視線だけこちらに向けて、フッと笑った。
興味ないくせに。その言葉が、嫌に刺さる。
「別に、暇だっただけ」
「だよな。大胡は」
視線を本に戻して、泉がそう言う。嫌味でもなんでもなく、ごく自然にそう口にする泉は、多分、俺に期待なんかしていないんだろう。俺たちの関係が、ある日突然変わるなんて、考えても居ない。
泉は、俺と離れることも、一緒に居続けることも、考えてはいないのだ。
ただ、なにも変わらず、延々と終わりなく続いていくと、思っている。そして、どこかで感じている矛盾と破綻を、全て俺に委ねている。
歪んだ関係は、緩慢に俺を殺す毒のようだ。二人の間には、もうなにかを変えるだけの劇薬はなく、始まってもいない関係は、終わらせることも出来ないままだ。
もしかしたら俺たちは、互いに、始まることを恐れているのかも知れない。
終わりが来るのが怖いのか。始まってしまうことが怖いのか。
「木島」
聞きなれない声が鼓膜をなぞった。窓のそとに向けていた視線を、声のほうに向ける。
泉の隣に、男が立った。好青年という言葉をそのまま擬人化したような、爽やかな印象の青年。浅く焼けた肌と、やけに白い、歯並びの良い歯。ピタリとしたTシャツの上からでも、盛り上がった筋肉が解る、体格の良い男だ。泉の周囲には居なかったタイプの、爽やかなイケメンだった。
「……」
俺は思わず、じろりと男を観察する。泉は本を手元に置いて、男の方を見上げた。
「|進藤《しんどう》。どうしたの?」
「これ、借りてたノート。次逢うときで良いかと思ってたんだけど、ゼミ合宿に入っちゃうだろ? 合宿の時に渡すのはさ、と思って」
「ああ、そうか。ありがとう。わざわざ」
「いや、借りたのは俺だしね。助かったよ。木島の字、綺麗だから見易かった」
ニコリと微笑む進藤に、吊られるように泉が笑った。
「……」
なんとなくムッとして、泉の横顔をじっと見る。俺の知らない、泉の交遊関係。いつも一緒にいるのに、俺の知らない男。
「じゃ、また後で」
「ああ」
颯爽と立ち去る進藤に、俺は眼を細めた。進藤は俺の存在に気づいていたはずだが、一度も目線を合わせて来なかった。
この世にいないもののように扱われるのは、少々、不愉快だ。
あの男がなんなのか、一瞬聞こうと思って、辞めた。妙なプライドが、胸を掠める。
泉はまた、文庫本を捲る。だが、読んでいるわけではないようだった。集中力を乱した泉に、なんとなく不快な感情が湧く。
「―――」
ビクリ、泉の肩が揺れる。俺は構わず、泉の手を握って指を絡めた。指の腹を撫でると、机の上に、文庫本の背表紙がカタと音を鳴らして落ちた。
泉の顔色は相変わらずだったが、耳は赤かった。瞳に熱を孕ませて、小さく「大胡」と囁く。
泉の指が、絡み付いてくる。ほどけないほど固く握りあって、ほどくタイミングを見失った俺たちは、授業が始まっても、ずっとそうやって手を繋いでいた。
(進藤――か)
歯並びの綺麗な、好青年を思い出す。
あの男は、俺と同じだ。同じ匂いがする。
多分。
あの男は、男を抱いたことがある男だ。
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