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二十四話 願いは、叶うことはなく。

(くそ……。メッセージにも出ねえし……)  あれから一週間、泉に避けられている。大学でも会わないし、メッセージにも返事がない。もちろん、俺の家に来ることもない。  こうして泉のいない時間を過ぎると、思い知らされることがある。今までだってそうだ。俺が女と付き合っている時、泉とは身体の関係がなく、友達に戻る。俺と泉の関係が、泉の努力によって成り立っていたのだと気づかされた。  多分、俺が泉に会いに行けば、早いのかも知れない。でも、俺にもよくわからない。  ――俺は、どうしたいのだろうか。  ベッドにゴロンと横になり、無為に天井を眺める。  あの時、円谷に言った言葉は、嘘じゃない。  俺は、――好きにならないし、好きになって欲しくない。  その気持ちは、本心のはずだった。けれど、今は何処か、歪な形を形成している。  好きにならない。  好きになるなよ。  ずっと、そう言い聞かせて来た気がする。  そう思って、ずっと過ごしていた。 (けど)  けど。俺は結局、泉を諦められなかった。  初恋は毒薬だ。俺にとっての初恋は、酷く乱暴で、自分勝手なものだった。その身勝手さが、今でもずっと続いていて、俺と泉の人生を壊している。  初めて泉をベッドに連れ込んだあの日から、泉はずっと、俺のベッドの中に居る。その執着を恋というのなら、恋とはなんと残酷なのだろうか。 (そうだよ。このまま、疎遠になれば)  頭ではわかっているのに、胸がざわざわする。  好きになりたくない。  好きになって欲しくない。  それならば、離れるべきなのだ。  そんなことは、ずっと解っているのに。  どうして俺は、まだ泉を待っているのだろう。  どれくらい時間が経ったのか、自分でも感覚が曖昧だった。沈黙を破ったのは通知を知らせる電子音で、一瞬それが泉かと思って、俺は慌ててスマートフォンを開く。 (――進藤)  期待した相手でなかったことにがっかりしながら、同時に違和感を抱く。見た目通り品行方正で常識人なこの男とは、殆どやり取りをしたことがなかった。  メッセージアプリを開いて、内容を確認する。 『木島、そっちに居る?』  短い言葉に、一瞬ドキリと心臓が跳ねる。  どういう意味か、測りかねた。『なにが?』と送ろうとして、送信ボタンを押すのを辞めてメッセージを削除する。電話帳から進藤の番号を呼び出し、直接電話を掛けた。 「もしもし?」 『もしもし。ゴメン、夜遅くに』  チラリと、時計を見る。気づけば時刻は二十二時を超えていた。俺も、数時間ぼうっとしていたらしい。 「いや。どうした?」 『木島、そっちに行ってたりする? あと、近所だって言ってたよな。帰ってるかなって』 「――は?」  電話の向こうの進藤は、どこか様子がおかしかった。なんとなく、胸がザワザワとする。 『今日、二人で飲んでて――。途中で、木島が慌てて帰ったんだけど……』 「は……?」  慌てて帰る? 何のために?  心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。胸がムカムカしてくる。 『様子がおかしかったから、気になって連絡したんだけど、全然連絡がとれなくて』 「――」  俺はグッと、息を呑み込んだ。嫌な予感が、胸を占める。 「電話にも出ないのか」 『うん……電源、切れてるっぽい』 「……ちょっと、家の方見て来る」 『うん。頼める?』  電話を切ると同時に、アパートを飛び出す。泉の部屋の鍵は、常に持ち歩いている。  外へ出ると、いつの間に降って来たのか、冷たい雨が降り出していた。一瞬傘を持ってこようかと考えたが、戻るのが億劫でそのまま走り出す。パシャパシャと音を立てて道路を走り抜け、泉のアパートへと向かう。 「……」  明かりは、ついていなかった。念のため合鍵で中に侵入する。籠った空気に、顔をしかめる。ベッドにも、風呂にも。どこにも、泉はいなかった。 (あのバカ……どこに……?)  スマホの電源も切れて、アパートにも帰らず。何処に消えたというのか。 (飲んでたって、言ったよな……)  どこかで、事故にでも遭ったんじゃ。  嫌な考えが頭をよぎり、眩暈がした。ふらつく足取りでアパートを飛び出し、濡れるのも構わずに走り出す。進藤と飲んでいたのなら、駅からだろうか。警察に連絡したほうがいいだろうか。  むやみやたらに道を走り、泉を探す。 「泉っ……、泉……!」  路地を走る車が、泥をはね上げる。泉がどこかで倒れていないか。どこかで怪我をしてるんじゃないか。そう思いながら、道を探す。  胸が張り裂けそうだ。心臓から血があふれ出てしまいそうだ。  ああ、泉。 (まだ、何も言ってないのに)  ごめんねも。  悪かったも。  愛してるとも。  言っていないのに。 「泉っ!!」  ザーザーと降り続ける雨音だけが、虚しく響く。  服が雨で張り付いて、不快だった。  橋を渡り通りの向こうへ行こうとしたところで、不意に視界の端に白いものが動くのが見えた。 (え)  ドキリ、心臓が跳ねる。  勢いよく欄干を掴み、橋の下を覗き込んだ。 「泉!!!」  その声に、泉がハッと顔を上げた。俺は橋の横手から土手へと回り、川べりへと降りていく。護岸されていない川の袂に、泥だらけの泉がいた。 「……大胡」 「いず、みっ……」  思わず、泉の肩を掴む。 「――っ……」  泉の身体は、酷く冷えていた。濡れていない所などないほどずぶ濡れで、どれくらいこうしていたのか、胸が痛くなる。 「なに、やってんだよ……」  問いかけに、泉が嗚咽を漏らす。 「つ……、からなく、て……」 「あ?」  いつでも、体温がないように表情のない泉が。ぼろりと、大粒の涙をこぼし、顔を大きく歪めた。 「失く、なっちゃった……。大胡っ……」 「――え」  子供のように泣きじゃくる泉に、動揺して視線をさ迷わせる。  失くなった。なにが。  そう思ったのは一瞬で、すぐに何があったのか気づいてハッとする。  いつも首からかけていた安物のネックレスが、泉の首から消えていた。 「――」  泉の絶望が、伝わってくる。  あのネックレスは、泉にとって。  泉にとって、最後の砦だったから。 「――……」 「失くなっちゃった……、だい、ごっ……」  あのネックレスは、俺とのつながりそのものだった。  そのつながりが、今はもう。 「……」  俺はグッと息を呑み込み、泉の肩を引き寄せた。何を言ったらいいのか、解らなかった。俺は黙って、泉の身体を抱きしめようとして、手を止めた。  俺に、その覚悟があるのか。ずっと逃げて来たのに。  泉が、嗚咽を漏らした。 「……もう、辞めよう……」  ザワリ、胸がざわめいた。  泉は、なんと言った?  何を言ったのか理解できなくて。理解したくなくて、黙ったまま泉を凝視する。 「――え?」  泉が、今度はハッキリと口にした。 「……辞めたい……」  ハッ、と、胸の奥から変な声が出た。  泉が、真っ直ぐ俺を見る。 「――いず」 「もう……疲れた……」  瞼を伏せる。泉の瞳から、涙がこぼれた。  雫が顎を伝って落ちるのを、呆然と見つめる。  ああ、俺は。  喉がカラカラと渇く。胸が、抉られるように痛い。頭のなかに鐘があるように、ガンガンと痛みを訴える。全身の血が沸騰して、無くなってしまいそうだ。  俺たちの関係は、泉の努力によって成り立っていた。  俺は、泉はどんな時でも、許してくれるのだと思っていた。  この関係が、未来永劫、続いていくのだと、どこかで信じていた。  ――泉がもう限界なのを、知っていたくせに。 「いず……み……」  ようやく絞り出した声は、やけに掠れていた。  泉はしばらく、俺が何かをいうのを待っていたが、俺が何も言わないと、背を向けた。ばしゃ、ばしゃと水音を立てながら、河川敷を歩いて土手の方へと歩き出す。  俺はそのまま動けず、その場にじっと立っていた。  泉が、居なくなってしまう。  泉が、俺の前から消えてしまう。  泉。  泉。  泉。  泉。  泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。泉。 「――――――――――いずみ……」  ばしゃん。地面に膝をついて、割れるように痛む頭を抱えるようにしゃがみ込む。  泉が、脚を止めた気配がした。 「怖い……んだ……」  泉は、何も言わなかった。  怖い。  怖い。  お前が、俺を受け入れたのが、怖かった。  お前が、俺を好きになったのが、怖かった。 「怖いんだよっ……!」  初めて抱いたあの日から、俺はどれだけのものを、お前から奪えば済むのだろうか。 『普通』の日常も。『普通』の恋も。『普通』の生活も。『普通』の家族も。『普通』の人生も。家族も。友人も。夢も。仕事も。きっと俺は、これからもずっと奪い続ける。  進藤はどうして、ああやっていられるんだろう。俺は、怖くて堪らない。  そちら側に行くのが怖い。  泉を連れて行くのが怖い。  泉を幸せにしたいのに。  泉を不幸にしかしない自分が嫌いだ。  泉から何もかも奪った自分が憎い。  泉を変えてしまった自分が、化け物にしか見えない。  ああ。  それなのに。 「なんで、俺はっ……」  お前を手放すことが、出来ないんだろう。 「大胡……」 「愛してる……。愛してるんだ……」 「――大胡」  どうして、愛さずにはいられないんだろう。 「大胡」  いつの間にか泉が目の前にやって来て、俺を見下ろしていた。ぐしゃぐしゃの顔で、俺を見下ろしながら、嗚咽を漏らしている。 「ば……かっ……。遅いよ……」  ダメだ。  受け入れたらダメなんだ。  そう言いたかったのに、泉が俺の頭を抱きしめる。 「泉……っ」 「ばか大胡……っ」  好きになるな。  好きになるなよ。  そう、念じていたのに――。  泉の唇が、重なる。冷えた唇だったけど、舌は熱い。 「もう、離れてやらないから」  泉が、薄く笑う。俺は視界が歪んで、その顔が良く見えなかった。  好きにならないで。  その願いは。  叶うことなど、なかったのだ。

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