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第3話
その日、ついぞ染谷が現れることはなかった。
もちろんその後も、飲み会への参加はおろか、染谷は昼休憩で誰かと一緒にランチをすることもないため、染谷と営業部第二課の社員たちがコミュニケーションを取る機会もない。染谷は基本的にオフィスではまったく喋らないし、指示を受けるときだけ八代と会話をするが、そこから刺が抜けることもない。そんな会話を聞くたびにオフィスの雰囲気は悪くなるのだが、染谷は気にすることもないから、ただ淡々と仕事をこなすばかりである。
そして必ず定時に上がる。一分も遅れることなく、「お疲れ様でした」と言うこともなく、颯爽と一人オフィスから出ていくのだ。
そんな生活が一ヶ月も続くと、さすがに女性社員の染谷に対する目も厳しいものに変わる。浮かれていた最初が夢のように、今では陰でヒソヒソと悪く言われる対象となっていた。
「あれ、ないですね……」
木曜日の朝。資料室を訪れた真木は、いつものように鍵のチェックをしていた。朝礼のあとに必ず一度は確認をするのが日課である。
「……佐々間くんのフットサルは一昨日……そのときは翌朝に返却していますし、そこから次に借りた記録はない……」
体育館の鍵がない。けれども名簿に借りたという記録も残されていない。
レクリエーション活動部、通称レク部で積極的な活動をしているのは主に佐々間である。基本的に佐々間が周囲の社員を巻き込んで、体育館でフットサルだのバスケだのと体を動かしている。もう何度も鍵を借りてこの制度にも慣れている佐々間が今更名簿に名前を書き忘れるようなミスをするとは思えない。
「……誰かの記入漏れですかね」
真木はついでに必要な資料を取り、また昼にでも確認に来るかと一旦オフィスへと戻った。
さりげなくオフィスに居た佐々間に「今日のレク部は何をするんですか」と問いかけた。すると「今日もフットサルですね。平岡、来るだろ」「行くっす!」と会話をしていたから「鍵の管理はしっかりお願いしますね」と言ってみたのだが、「分かってますって」とあっさりと返される。
やはり、佐々間が今更手順を忘れたとは考えにくい。
昼休憩で急いで資料室に向かえば、体育館の鍵は戻っていた。名簿にはやはり記載がない。ということは、朝礼のあとにやって来た真木よりも遅く、けれども昼休憩の前には誰かが返しに来たということだ。
しかし犯人が分からないから注意のしようもない。監視カメラを見れば分かるのかもしれないが、鍵はしっかりと返却されているからそこまで躍起になることでもないし、なにより真木はあまり大事にしたいとも思っていない。
もうしばらく様子を見るかと、一旦見逃すことにした。
その日から、鍵が無くなることが増えた。
もちろん名簿には記載がない。だから誰がというのは分からなかったが、少し経った頃には、水曜日と金曜日に鍵がなくなっていることが分かった。
佐々間のレク部活動は火曜日と木曜日だから、それを見越して鍵も持ち出しているのだろう。
必ず月曜と木曜の鍵の確認で見当たらないから、水曜と金曜に体育館を使っていることは間違いない。
週中と週末ということでその曜日はちょうど社員が体育館に近寄らないのだが、きっと鍵を持って行く人物は気付いていないのだろう。
真木はさっそく、水曜の定時後に体育館にやってきた。いきなり出て行って叱るつもりはないが、せめて誰がというところを把握はしておきたい。
体育館の入り口からの死角に立ち、真木はそっとそちらを覗く。周囲から見ればとんだ不審者だが、体育館があるのは会社の敷地内であるため、誰が通りかかることもなかった。
少しして、やってきたのは染谷だった。
スーツ姿のまま体育館を開け、慣れたように中に入っていく。
「……染谷くんが、体育館に……?」
バレーでもしているのだろうか。けれどバレーは一人ではできない。いったい何事かと、真木は素早く体育館の重たい扉を少しだけ開き、中を覗く。
すると、ジャケットを脱いでせっせとポールを運ぶ染谷が見えた。
ポールを二本立て、ネットを張る。慣れた手つきだ。そしてボールを一つ持つと、染谷はそのまま体育館に座った。
何をするでもない。染谷はただ体育館に座り、ポールを持って張りたてのネットを見ているだけである。
その横顔からは、正確な感情は分からなかった。決して単純なものではない、複数の感情がないまぜになったような、そんな顔をしていた。
ただ座るだけ。けれどもなぜかそれがとても大切な儀式のように思えて、真木は気付かれないようにとそっとその場を離れる。
金曜日も同じだった。真木は同じようにネットを張り、ボールを持って眺めていた。
いつまでもいつまでも、染谷は同じ儀式を繰り返す。表情は変わらない。たまに数度ほどボールを突くこともあるが、打つことはない。表情も変わらないけれど、それでも少しばかり諦めが滲んでいるようにも見えてきた。
「なーにやってんですか、課長」
少しだけひそめた声に思わず振り向くと、呆れた顔で佐々間が立っていた。
真木はすぐに鼻の前に人差し指を立てる。
「部下の様子を見ています」
「こそこそしてると思ったら……染谷ですか。なにやってんだあいつ」
真木のそばから体育館の中を覗き込んだ佐々間が、ため息混じりに呟く。
「分かりません。ここ一ヶ月、こっそり体育館の鍵を持ち出して、週に二回はずっとあの調子です」
「暇人かよ」
真木はそっと扉を閉め、その場を離れる。
「行きますよ」
「いいんですか、ほっといて」
「心配ではありますが……彼は大丈夫でしょう。本当は、バレーがしたくて仕方がないんですね」
少しだけ嬉しそうな真木に、佐々間は軽く息を吐く。
「課長ってほんと面倒見いいですよね。……まぁオレも、課長のそういうところに助けられたんで何も言いませんけど」
「何を言ってるんですか。佐々間くんは僕が何もしなくても、自分で持ち直したじゃないですか」
「まさか。……課長が居なかったらオレ、すぐにでも会社辞めて地元帰ってましたよ」
真木の隣を歩く佐々間は、前を向いたまま複雑な表情を浮かべていた。先ほどの染谷と少し似ている。
「思い出してるんですか?」
「まぁ。……あんときはやるせないことばっかで、感情だけが暴走して落とし所も分からずに迷惑だけかけてた時期なんで、思い出したくもないですけど」
少しばかり佐々間を見上げていた真木がクスクスと笑うと、さすがに佐々間も気になったのか、ちらりと一度真木を横目に一瞥した。
「なんですか」
「いえ……案外、佐々間くんと染谷くんは似ているのかもしれないなと思いまして」
「オレがあ? やめてくださいよ、オレはあんなクソガキじゃないです」
「僕は染谷くんのことをクソガキだなんて思ったことはないですよ」
「そうじゃなく……というか課長、染谷がなんでこっちに異動になったか知ってるんですよね」
帰路をたどりながら、佐々間はずっと疑問に思っていたことを問いかけた。
なぜあの染谷拓海が、チームを離れてまで異動してきたのか。それはオフィスの人間全員が気になっていることである。
「会社が見限ったってわけじゃないんですよね? 染谷のこと調べましたけど、あいつの力がチームに必要だってことは誰にでも分かります。けどだからこそ、オフシーズンとはいえなんでそんなやつがチームから引き離されてんのか分かんないんですよね」
営業部一課の課長や、営業部の主任連中もその理由を知らなかった。部長クラスはさすがに知っているのかもしれないが口を割らないだろうということは火を見るよりも明らかで、そもそも佐々間は部長らとあまり関わるようなこともないし、雑談をするような気さくな間柄でもない。
そのため、染谷が配属された課の課長である真木なら何かを知っているだろうと踏んだのだが。
「……実は、僕も知らされていないんです」
真木は力なく眉を下げ、困ったように笑うだけだった。
「ふーん。まあいいですよ、そういうことにしておいてあげます」
「そういえば佐々間くん、本社に同期が居るんじゃなかったんでしたっけ? その子たちから何かを聞いているんじゃないんですか?」
「残念ながら、その同期たちも何も知らないらしいんですよ。だから染谷がこっちに異動するって聞いて、真っ先にオレに『なんでだよ』って聞いてきましたからね」
控えめに笑う真木をちらりと見下ろして、佐々間は気付かれないようにとそっとため息を吐き出した。
こういうとき、真木は絶対に口を割らない。今の同期の話も何かを知っているのかもしれないと探られたということも分かっているし、そして探ったという素振りすら一切見せない。本社の社員でさえ異動理由を知らないほうが隠されすぎていてよっぽど違和感はあるのだが、きっとそんな違和感を抱いている佐々間にも気付いていながら、真木は知らないふりを続けるのだろう。
「はぁ……ま、課長はそれでいいですよ。どうせ染谷のためとか言うんでしょうし」
「? 何か言いましたか?」
「なにもー。それより課長、いつものとこでラーメン食べて帰りません? レク部のあとに行ってたらなんか習慣化してきちゃって、今めちゃくちゃ食いたいです」
「いいですね。ご馳走しますよ」
二人は少しだけ行き先を変えて、それからは社員たちの話をしていた。
話の内容はもっぱら「オフィスの雰囲気について」だ。みんな染谷の言葉や態度を気にしていて、口が裂けても明るいとは言えない。真木と佐々間もよくどうしたものかと話し合うのだが、ここだけは結局結論が出ないままである。
結論が出ないまま放置をしていたからだろうか。ある日の朝、真木が出社した途端、複数の部下たちに呼び出された。
「あいつに営業させてくださいよ」
やってきたのは会議室だった。広い会議室であるため、十名程度の社員が入っても狭さを感じない。社員はみな怒ったような顔をしている。その中には八代も居た。
「あいつとは、どなたでしょう?」
「染谷ですよ。……得意先に言われたんです。どっから聞いたのか、染谷がうちに異動してきたって知ってたみたいで、『居るなら染谷くんも連れてきてよ』とか『染谷くんに言われたらうなずくかも』とか、そんなことばかり言われます」
一番前に居た八代がそう言うと、すぐ後ろに立っていた女性社員も身を乗り出す。
「うちもです。これまでずっと頑張ってきたのに、数年の付き合いなんてなかったみたいに染谷さんをって言われて……」
それを皮切りに、社員たちからは同じような状況になったと報告が上がり、そして最後には「もう全部染谷に行かせたらいい」「資料は自分たちが作る」と口をそろえて告げた。
「正直ストレスです。オフィスでも染谷はあんな態度で、長い付き合いの得意先にもそんなこと言われて……」
「私たちの普段の頑張りってなんですか?」
「正直、自分たちがあんな態度の染谷以下だって言われてるみたいでキツいです」
「出社社員でもなかったのに……」
全員、暗い顔をしていた。目を伏せ、やるせない表情を浮かべている。
真木はそんな部下の顔を一人ひとりしっかりと確認し、驚かせないようにと極力静かに口を開いた。
「みなさん、一旦座りましょうか。心身ともに疲れているんですから、今はリラックスしないと」
言われてすぐは戸惑っていた社員たちだったが、真木に言われたからか、少しあとにはみなきちんと椅子に座っていた。
会議室の机はぐるりと向かい合うように並んでいるから、椅子に座れば同僚の顔もよく見える。それぞれが目を合わせて、やや安心したように表情を緩めていた。
「八代くんはコーヒーでいいですよね」
全員が座ったのを確認して、真木は会議室の隅っこにあるコーヒーマシンにカップを置く。
「え! いえ、僕がやります! 課長にそんなこと……」
「いいんですよ、座ってください。いつも現場でたくさん考えて動いてくれているのはあなたたちなんです。僕があなたたちを労わないでどうするんですか」
焦った様子もなくてきぱきとマシンを操作する真木を見て、八代は力なく椅子に座り直した。
「八代くんはブラックコーヒーが好きですよね。三上さんはシロップをうんと入れたカフェオレ。シロップはいつも三つ入れます。増田くんはコーヒーが好きじゃないんですが、みんなに合わせてミルクたっぷりのブレンドコーヒーを飲みます。今日は紅茶をいれますね。確かアップルティーが一番お気に入りでした」
一人ひとりに確認をしながら、真木は飲み物を配っていく。
最後の一人にまで飲み物が行きわたると、自身のコーヒーを入れて、真木はみんなの顔が良く見える一番奥の席に座った。
「みんなが頑張ってくれていることを、僕が一番良く分かっています。辛い思いをさせてしまって申し訳ない。僕の力不足が招いた結果ですね」
「違います。課長が悪いとかじゃないです」
全員がうなずくのだが、真木はなぜか弱弱しく微笑んだ。
「……温かい飲み物を飲むと、なんだか寒い日を思い出します。子どもの頃、寒い日に停電になったことがあるんです。停電になると暖房もファンヒーターも使えなくて困ったものです。だけど僕の家には一つだけストーブがあったので、ストーブの前で毛布をかぶって寒さをしのいでいました。するとね、一軒家だったんですけど、窓の外から野良猫の声が聞こえたんです。窓を開けたら五匹くらいが一気に入ってきて、ストーブの前に群がっていました。そのときに、猫たちに温かいミルクを用意したんです。自分にはインスタントのコーンスープを。猫たちと一緒に毛布に入っていたら、なんだか寒さも寂しさも吹き飛んだ気がしました。そのときのことを、今でも思い出します」
社員たちはなんとなく、出された飲み物を飲みながら耳を傾ける。
「野良猫たちはそれから、何度もうちに来てくれるようになりました。ミルク目当てだろとか、あったかいからだろと言う人も居ましたが、僕はそうは思いません。だって猫たちは、僕が外を歩いていてもついてくるようになったんです」
「……課長は子どもの頃から、猫すらたぶらかしていたんですね……」
八代が呟いた言葉は真木には聞こえなかったが、社員間にはしっかりと届いていたらしい。その場にいる真木以外の全員が確信をもって数度うなずいていた。
「心を預ければ、動物すら友人になれます。信頼関係を築けたならなおさら、メリットなんてなくとも、ついてくるほどになります」
「……それは、私たちに染谷さんと仲良くしろと言っていますか?」
「ふふ、そっちではありませんよ。得意先です」
ずっと染谷の話だと思いながら聞いていた社員たちは、その言葉に思わず全員が真木に目を向けた。
「そうだ、意地悪を言われたのなら、こちらも意地悪を言ってみましょうか。目の前でね、あからさまに悲しそうな顔をするんです。『もっと一緒にお仕事がしたかったけど、今社内で担当の交代を検討してる』とか、嘘をついちゃってください」
「……いいんですか? そんなこと……」
「でもそれで本当に変わってくれって言われたら……」
「本当に変わることになったなら、もちろん染谷くんに行ってもらいますよ。大丈夫です。優秀なあなたたちには、お仕事はたくさんありますから」
真木がそう言っても、社員たちはなんだか浮かない顔である。しかし最初よりもトゲが無い。リラックスは充分に出来ているのだろう。
「染谷くんの態度についても、なんとかしてみますね。もう彼も、充分リラックスした頃かと思いますので」
社員たちにはその言葉の意味が分からなかったが、真木がいつもの調子だったから、なんとなく聞くことが出来ないようだった。
始業後に消えた複数名の社員たちがぞろぞろとオフィスに戻ったのは、始業から一時間後のことだった。オフィスに居た社員はその異様な光景に何があったのかを聞こうとしていたが、真木の手前大きな声では聞けないらしい。社員たちには社員間での共有があるとして、佐々間にはフォローも含めてあとで報告しなければなと、真木はそんなことを考えながら、いつものようにスケジュールとメールのチェックから業務を始めた。
真木が動いたのは、その週の水曜日の就業後だった。
「……何やってんですか」
染谷が体育館に来ることを見越して、真木は入口で待っていた。
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