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第4話

「お疲れ様です、染谷くん。今日は体を動かしたいなと思ったんですが、体育館の鍵が無かったので、ここで待っていたんです」 「……どーぞ。俺は帰りますんで」  鍵を真木に渡すと、染谷はあっさりと背を向ける。 「え、帰っちゃうんですか? 染谷くんも体を動かしたくてここに来たんですよね?」 「別にそんなんじゃないです」 「じゃあどうしてここに?」  ぴたりと足を止め、半身で振り返る。染谷の表情は固く、まるで威嚇されているようだ。 「……あんた、ずっと気付いてたんじゃないんですか、俺が勝手にここを使ってること」 「勝手だなんて、この体育館はうちの社員の自由スペースなので、好きに使ってもらって構いませんよ」 「そういう意味じゃなく」  何かを続けようとした染谷は、何を言ってもかわされると分かったのか、むしゃくしゃしたような顔で深いため息を吐き出す。  再び背を向けようとしたところで、真木の言葉が追いかけた。 「そうだ、僕とバレーやりませんか」  染谷の歩もうと踏み出した足は、真木の言葉でそのまま動かなくなった。 「ほら、一人ではバレーはできませんが、二人ならできます。僕こう見えて、高校まではバレー部だったんです。まったくの素人というわけでもありません」  まだ動かない背中に、真木は気にせず語り掛ける。 「一応リベロをやっていました。でも僕よりも上手い人ばかりだったので、ほとんどマネージャーみたいなことをしていましたが」  敷地の外を、小学生たちが駆けていた。高い声で叫びながら遊んでいる。少し離れたところに居たが、二人があまりに静かだったからかそんな声も良く聞こえる。 「久しぶりにボール、打ってみませんか。頑張って拾いますよ」  数秒間が落ちた。あの足が動けば終わりだと、真木は染谷の踏み出した足ばかりを見ていた。  小学生の声が遠のいていく。もうすぐ十八時半になるから、家に帰るのかもしれない。頭の片隅でそんなことを考えながらひたすら足を凝視していたのだが、その足がくるりと振り向いた。 「俺、やっぱりあんたみたいな人嫌いです。お節介で遠慮もない」 「まだ嫌われていましたか。ですがほら、僕と染谷くんはバレーが好きです。一緒にバレーをすれば、僕のことも好きになるかも」  やはり心底嫌そうに顔を歪めた染谷は聞こえるようにため息を吐いたのだが、真木はいつものように微笑んだままだった。  やがて染谷が真木のもとにやってくると、体育館の鍵を奪う。 「下手くそだったらすぐに帰ります」 「はい。頑張りますね」  染谷とは目が合わなかったが、真木は満足そうに笑っていた。  二人はジャケットを脱ぐと、腕まくりをしてさっそく準備を始める。手際良くネットを張る真木に、染谷は「ほんとにバレーやってたんだな」という目を向けていたが、真木が気付くことはなかった。 「よし。じゃあ染谷くん、サーブを打ってください。僕が拾います」 「……現役選手のサーブ受けるって、大丈夫ですか。腕ぶっ壊れますよ」 「ちょっと受けてみたいという好奇心もあるので大丈夫です」 「……っても、俺のサーブ強いし」  何やらぶつぶつ言ってはいるが、打つつもりではあるのか、染谷はサーブ位置に立つと数度ボールを突く。  少しだけ、染谷の空気が変わった。 (あ、プロの目だ)  真木はそれを感じたが、とっさに身構えることも出来なかった。  ボールを突く音が途絶えた。次にはやや身をかがめ、顔を上に向ける。同時にボールを上に投げると、まるでスローモーションのように地を蹴り、強烈な音と共にボールを打つ。  ボールは一直線に真木の足元に落ちた。強い音を出して跳ね、真木の隣を勢いよく通過して壁にぶつかる。 「……ほら、一歩も動けないじゃないですか」  てん、てん、というボールが軽く跳ねる音を聞きながら、それでも真木は動かなかった。 「って、何泣いてんですか」 「え! あれ、僕泣いてる、あはは、ごめん、すっごく綺麗でびっくりしちゃった」  訝し気な顔をする染谷を心配させまいと、真木は慌てて目元を拭う。 「すみません、えっと、次は拾います。もう一度お願いしても良いですか」  目元と鼻先を赤くして笑う真木を拒絶することも出来ず、染谷はそれから数度サーブを打った。  しかし結果は真木の惨敗だ。奇跡的に拾えても、染谷のコートに返ることはない。  十本打ったところで、一旦休憩が入った。 「すごいですね、染谷くん。やっぱりきみはすごいです」 「語彙力なくなってますよ」 「ふふ、それくらいすごいんです」  まったく息切れもしていない染谷の隣に、やや疲れ気味の真木や腰かけた。 「……あんた、俺のこと知ってたんですか」 「なにがですか?」 「いや……なんか、ファンだったから泣いたのかなと」  真木はカバンからスポーツドリンクを取り出して、染谷に渡す。最初から染谷とバレーをするつもりだったから、事前に用意していたものだ。染谷は特に何も思わなかったのか素直に受け取り、口をつける。 「うーん、ファン、とは違うんですけどね」  真木も自身のスポーツドリンクを一口飲むと、すぐにキャップを閉めた。 「僕がすごく弱っているときに、偶然テレビできみのプレーを見ました。九年前です。春高でしたかね。きみは高校一年生でレギュラーとしてコートに立って、活躍していました」 「……そんだけですか」 「もちろん違いますよ。春高できみの学校が優勝して、密着取材みたいな番組があったんです。その中で、当時十六歳だった染谷くんがインタビューされているときに言ったんです。『ここで話してる時間ないです。練習したいんで失礼します』って」 「あー……あれ、ネットで炎上したやつですね」 「懐かしいですね。だけど染谷くんはその言葉の通り、テレビでどの場面を抜かれても、必ず誰かの背後でボールに触れて練習していました。そのときにね、こんなに若い子でも自分のやりたいことや将来に向けてまっすぐ進んでいるのに、自分は何をしているんだろうと、ハッとさせられたんです」  それはファンとどう違うのかと、そんなことを思っているような染谷に気付き、真木は思わず苦笑を漏らす。 「ファンではないんです。だってきみがうちに入社をしたと知っても、試合を観に行ったことはありません」 「じゃあなんで泣いたんですか」 「単純に、感動したんです。あの日見たきみのひたむきなバレーが、目の前にあったので」  心底嬉し気に笑う真木の笑顔は、いつも浮かべているものではない。染谷はそんな横顔をじっと見ていたが、すぐに目をそらした。 「次はアタック打ってみませんか。僕、トス上げますよ」  休憩をしている今も、染谷はボールを持っている。  手元にあるそのボールを数度撫でると、染谷は何も言わずに立ち上がった。  結局その日はぽつぽつと会話をしながら、三時間ほど二人でバレーをしていた。 「いやー、驚きました。もうこんな時間に。楽しかったです。今日はありがとうございました」  体育館を出て、二人で並んで帰路につく。染谷は相変わらず何も言わなかったが、軽く頭だけは下げていた。 「そうだ、良かったらまた一緒にバレーしてくれませんか? 僕実は、四十になってからすっかり体がなまってしまって、ジム通いも続かないので困っていたんです」  真木の困ったような言葉に、染谷は驚いたように振り向いた。  信じられないものを見るような目である。真木は何かおかしかったかと首をかしげるのだが、染谷は気にすることなく真木を見ていた。 「……四十って言いました?」 「え、あ、はい。今年で四十になりました」 「いや、そうですか。そうなんですね、なんか見えなくて……」 「ふふ、こんな頼りない見た目ですが、まだ二十五の染谷くんから見たら立派におじさんですよ」  少し抜けたような真木の返事に、染谷はそれ以上は何も言わなかった。  その後も二人は、会話をしながら並んで歩く。やがて、染谷に一つ気まずさが生まれた。染谷は社宅に住んでいるため、会社から比較的近いマンションで暮らしている。あと少しでマンションに着くのだが、真木がどこまで着いてくるのかが気になって仕方がない。  まさか、女相手のように、家まで送ろうとしているのだろうか。 「あの」  どうしても気になり、染谷はとうとう気まずげに口を開く。 「どこまで来るんですか。俺、送ってもらわなくても大丈夫ですけど」  言い方は選べなかったが、思ったままのことではあった。真木が怒るとは考え難いが、小言は言われるかもしれないなと。そんな不安を抱きながらちらりと真木を見下ろしたのだが。 「あ、ああ、そうでした。言っていませんでしたね。僕も社宅に住んでいるんですよ。だから帰る先が同じなんです」  染谷は有名人ということもあり、引っ越しをしても周囲に挨拶など行かなかった。いやそれ以前に、社宅を借りるときに前の上司から「社宅だけど数部屋うちで借りてるってだけだから、ほとんどが社外の人間」と言われていたし、染谷以外には居ないものだと勝手に思い込んでいた。 「そう、なんですか。知りませんでした」 「ちなみにお隣さんです」 「隣!? え、一回も会ったこと……」 「ありませんね。染谷くんが出社前に僕が家を出て、染谷くんの帰宅後に僕が帰ってきているので」  まさかの事実に、さすがに染谷も開いた口がふさがらない。そんな染谷を見て、真木はぷっと噴き出した。 「あはは、安心してください。僕たち以外に、あのマンションには社内の人は居ませんよ」 「そうですか、えっと……」 「さらに驚くことに、染谷くんの部屋には以前、佐々間くんが住んでいました」 「うわ……知りたくなかった……」  そんなことを言っていると、あっという間にマンションにたどり着く。染谷は半信半疑だったが、オートロックを解除して慣れたように入っていく真木を見て、本当に暮らしているのだなとようやく実感した。さらにはしっかりと部屋も隣だった。混乱する染谷をよそに、真木は隣の部屋の鍵を開けて「それでは、また明日」とにこやかに入っていった。  体育館の鍵は、翌日ひっそりと真木が返しておいた。少し迷ったが、名簿には何も記載はしない。ルール違反にはなるものの、それまで記載しなかった染谷の心情を思えば、真木が台無しにすることは出来そうにもなかった。

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