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第5話

  「……また来たんですか」  金曜の定時後。真木が体育館の入り口で待っていると、やはり染谷がやってきた。 「はい。今日も運動がしたいなと」  ため息を吐きながら、染谷は黙って中に入っていく。  今日は帰ろうとしないんだな、待たれるのが嫌なら曜日をズラせばいいのに、なんて思いながらも、そうしなかった染谷に真木は嬉しそうな笑みをこぼす。 「なんですか」  ネットを張っていると、染谷が気まずそうな顔で振り向いた。 「にやにやしてんですよ、さっきから。いっつもヘラヘラしてる顔がさらに緩んでて気持ち悪いです」 「いやぁ、また染谷くんとバレー出来るのが嬉しくて。僕少し勉強したんですよ。今日こそは拾ってみせます」 「無理ですって」  宣言通り、また十本ほどサーブを打ってもらったが、真木には一つも拾えなかった。 「おかしいですねぇ。理屈では完璧なんですけど、体がついていきません。年齢が結構響いているのかも」  そんなことを言うくせに、真木はやけに楽しそうに笑う。  休憩の姿勢に入った真木を尻目に、染谷は壁に向かってボールを軽く打ち始めた。ボールは跳ね返り、綺麗に染谷のもとに戻る。反対側のコートで背を向ける染谷に、真木はそっと近づき、少し離れたところで腰を下ろした。 「俺がなんで異動させられたのか、知ってんですよね」  真木を見ることも無く、染谷はただボールを打ち続ける。 「なんか言われたんですか、上の人に。俺にバレーやらせろとか、説得しろとか。余計なお世話ですよ。言ったでしょう、会社辞めるつもりなんです」  広い体育館には、ボールを打つ音と、跳ね返る音だけが響く。  返事をしない真木に焦れたのか、染谷はとうとう手を止めた。 「聞いてます?」 「あ、はい。聞こえていましたよ。だけど僕、残念ながら染谷くんの異動の理由は知らないんです」 「……それ、最初にも言ってましたけど、ありえないですよね。嘘ついたって無駄ですよ」 「そうですね、正確には『聞いたかもしれないけど覚えていない』と言うべきですかね。どれだけ他人になにかを言われても、本人から聞かないことには知らないのと同じだと思いませんか?」  染谷はぎゅっと眉を寄せると、再び壁に向けてボールを打ち込み始めた。  打たれたボールは壁に当たり、吸い込まれるように染谷のもとに返っていく。真木がそれをぼんやりと眺めていると、「バレーが楽しくなくなったんです」と、染谷がぽつりと言葉を落とした。 「去年の年末に、膝を傷めたんです。ボールをギリギリまで追いかけて無理な体勢で飛び込んだから、うまく着地できなくて膝を不自然にひねったみたいで。リハビリは欠かさなかったし、筋トレもずっとやってました。だから治療が終わってコートに戻るのも、周りが驚くくらい早かった」  バン! とひと際強く壁に打たれたボールは、染谷に返ることなく誰も居ない体育館へと転がっていく。 「……復帰できたのに、楽しくなかったんですか?」 「たった一度の怪我ですよ。それだけで、体の全部が狂いました。うまく走れなくなった。うまく飛べなくなった。ちょっと着地をミスると膝が痛む。無茶出来ないからって膝をかばうようにすれば全部のタイミングが狂って、以前みたいにはバレーが出来なくなったんです」  少しばかり壁を睨みつけていた染谷は、のんびりとした歩調でボールを拾いに向かう。 「それにイラついて、チームメイトとは喧嘩ばかり。試合にも出させてもらえなくなりました。俺より下手な奴ばっか出してなんになるんだよって、監督につかみかかっているところをチームメイトに見られて、また大喧嘩して。……で、気が付けば異動です。チームからも外されて、何やってんだか」  片手でボールを拾い上げて、染谷は向かったときと同じ歩調で元の位置に戻ってきた。その表情は、悔やんでいるでも、悲しんでいるでもない。異動してきてからよく見ていた、何を考えているかも分からないような、ツンとした無表情だった。 「そうですか。話してくれてありがとうございます」 染谷はやはり真木に目をやることもなく、また壁打ちを始める。 「戻りたいと思いませんか?」  今度はオーバーハンドでふわりとボールを壁に当てていた染谷は、手元にボールが戻ってきたタイミングで動きを止めた。 「戻れないと思ってますよ。……最後に喧嘩したときのチームメイトの顔をまだ覚えてます。たぶん、今更戻ったところで受け入れてもらえない」  キャッチされていたボールは再び、オーバーハンドでふんわりと壁の高い位置にぶつけられる。  真木はいつものようにカバンからスポーツドリンクを取り出すと、マイペースな仕草でそれを口に含んだ。 「……大人になったほうが、仲直りは難しいですからね」 「子どもみたいだって言いたいんですか」 「まさか。……染谷くんにも譲れないものがあったんでしょう。絶対に譲れないものに対して何かを言われてもね、折れることが出来ないんです。だけど仲直りというのはどちらかの妥協でしか進展しないから、譲れないものを持つ者同士だとなかなか難しい」  改めてしっかりと腕まくりをした真木は、休憩を終えるのか立ち上がった。 「確かに、誰かから見ればそれは『子どもみたい』にも見えるんですがね、違う誰かから見れば、譲れないものを持っている人に『芯がある』と言いますから、その矛盾がまた難しいものですね」 「……なるほど?」 「ふふ、さあ、おかげさまでゆっくり休めました。今度はトスを上げますよ」 「別にいりません。あんたのトス打ちにくいんで」 「トスも勉強してきたんで大丈夫です」 「どうせまた『理屈では完璧なのに』とか言うんですよ」 「それはやってみなければ分かりません」  三十分後、染谷が言った通り、真木は「理屈では完璧だったんですけど」と言いながら笑っていた。  結局その日も三時間ほどバレーをして、二人で体育館を出た。どうせ帰る先も同じなため、今日は染谷も気まずさを覚えることなくだらだらと歩く。 「来週、みんなで飲み会しませんか? ほら、歓迎会には来てくれなかったので、ぜひ」 「あー……」  オフィスの空気は、お世辞にも良いとは言えない。そもそも染谷には歩み寄る姿勢がないし、その必要もないと思っている。営業部第二課で確実に浮いている厄介者の染谷が来るとして、誰がそんな飲み会に参加をしようと思うのか。 「いや、いいです俺は。別に歓迎されたいわけでもないですし」 「ですが、異動してきて三カ月が経ちますし……」 「俺、辞めどき探してんですよ、今。会社辞めて、もうバレーも辞めようと思ってて。……だからもう、馴れ合う必要ないんで」  真木はふと、ボールに触れてネットを眺めていた、あの儀式のような染谷の行動を思い出す。  一か月間見守っていたあの儀式の中で、染谷はもしかしたら、辞めるかどうかを悩んでいたのかもしれない。 「……そうですか。バレーを辞めるのなら、営業回りにも出てもらえるということですね」  思ってもみない言葉に、染谷は訝し気に振り向いた。 「今は有名人だからと遠慮してデスクワークばかりしてもらっていますが、バレーをしないのならばメディア露出も無くなるということで、得意先にも行けるということですよね?」 「いや、俺会社ごと辞めるんで」 「どうして。本社に居ない限りはチームメイトに会うこともありませんし、ここなら普通のサラリーマンとしてお仕事が出来ますよ」 「まあ、そうかもしれないですけど……俺なんか要らないでしょ、ここの人たちに煙たがられてんのに」  それは自信を卑下するわけでもない、あくまでも事実だけを述べるような物言いだった。 「……僕ね、染谷くんとうちの子たちは仲良くなれると思うんですよ」 「はあ? 何を根拠に……」 「だってね、うちの子たちはみんな、ちょっとワケアリでここに異動してくることがほとんどなんです。一見自信満々で傲慢そうな佐々間くんも、お堅い委員長みたいな八代くんも、半年前に異動してきた元気いっぱいな平岡くんも、みんなちょっとだけ傷ついてここに来ます」 「問題児の異動先ってことですか」 「ふふ、違いますよ」  思った通りの捻くれた言葉に、真木はつい困ったような笑みを漏らす。 「休養が必要と判断された、優秀な人たちの居場所です。ここって実は、会社が大きくなる前は本社だったので、古い得意先が多いんですよね。だから開拓業務はそんなになくて、ほかよりはゆっくりと過ごせます。それでも業績が上り調子なのは、休息を終えた彼らがどんどん得意先を開拓しているからで、その数字は彼らが優秀たる証拠です。問題児なんかじゃありません」 「それって、あんたも?」  マンションに戻ってくると、真木がオートロックを解除する。その背中を見ながら、染谷は思ったことをそのまま口に出していた。 「九年前、弱ってたって言ってたからそうなのかなって思ったんですけど」 「……さあ、どうでしたかね。当時のことはあまり覚えていなくて」  お腹とか壊していたのかも、と笑う横顔を見て、染谷はその話題を追わなかった。

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