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第6話
飲み会の日取りについて、真木はそこそこ悩んでいたが、結局無難に金曜日が良いのではないかと落ち着いた。一週間先とはなるが、それでも社員たち的には翌日が休みである金曜日が最善なのだろう。それに、金曜日のほうが出席も多いはずである。
そんなことを考えながら月曜日に出社をすると、エレベーター待ちの時間で眠たげな佐々間が「おはようございまーす」と真木に声をかけた。
「おはようございます、佐々間くん。今日も眠たそうですね」
「昨日は夜遅くまでDVD観てたんで……」
「恋人さんとですか?」
「そうですそうです。あっちがホラー好きだって言うからホラーつけたのに、怖がっては止めろって全然進まなくて、すっげー夜遅くまで観てました」
クスクスと笑う真木に、佐々間は「笑いごとじゃないですよ」とうんざりと返す。
「そうだ、佐々間くん。今週の金曜、飲み会をしようと思うんです。お店選び手伝ってもらってもいいですか?」
「ん、飲み会ですか。なんかありました?」
「いえ。だけどほら、みなさん頑張ってくれているので、たまにはご馳走したいなと」
「ふーん……?」
エレベーターがやってくると、そこで待っていた集団が一気に流れ込んでいく。ギリギリ真木と佐々間まで乗れて、二人で並んで階層表示を見上げていた。
「それ、染谷は?」
「みんなには内緒ですけど、呼ぶつもりです」
まさかと思って聞いてみれば、思った通りの回答が小声で告げられる。
佐々間は大げさに肩を落とした。
「なんで俺には言うんですか……」
「だって佐々間くんは、どんなに嫌なことでも僕のために頑張ってくれるから」
「ずるいですよそれー……分かりました、他の社員には内緒にして参加者集めときます」
「ありがとうございます。持つべきものは優秀な部下ですね」
「そう言っときゃいいと思って……」
エレベーターが止まると、二人はすぐにそこから出た。
「二人でバレーしてましたよね、金曜。俺偶然見ちゃったんですけど」
「お声がけしてもらえたら三人でバレーできたのに」
「嫌ですよ、なんでオレが。……てか今更、あいつをうちに馴染ませようって思います?」
「うーん。馴染む馴染まないではないんですよね」
少しだけ考えるような仕草を見せて、真木は続ける。
「単純に、一人だと寂しいじゃないですか。染谷くんはきっと、みんなと仲良くできますよ」
にこにこしながらオフィスに入っていく真木の背中を見て、佐々間は「何言ってんだか」と諦めたような表情を浮かべていた。
飲み会への出席表明は、佐々間の予想通り全員参加となった。営業部第二課は仲が良い。真木が主催となるとだいたい全員が集まるから、招集前から分かっていた結果である。しかし染谷の名前を出せば、出席をするのはひと握りだろう。そんな罪悪感を背負いながらも、部下たちから「飲み会楽しみですね」と言われては、佐々間はひたすら「そうだな」と遠い目をする一週間となった。
そんな中でも染谷の態度は緩和されず、そしてその周囲の空気は相変わらず濁っている。八代なんてすぐ隣に居るにも関わらずやり取りはすべてチャットで済ませているらしく、最近では指示を出すにも会話をしている様子もない。
こんな状態の染谷を連れてきてどうするのか。不安になった佐々間はちらりと真木を窺うのだが、目が合った真木は首をかしげてにっこりと微笑むだけだった。
「で、心配してたのに染谷は来ねえと……」
飲み会が開催される金曜日の定時後。染谷が有名人だからと佐々間も一応気を遣い、いつも行く居酒屋とは違う、少し狭い居酒屋の卓をすべて予約したのだが、当の本人は時間になっても現れなかった。
「誘ってんですよね?」
「もちろんです。水曜日にバレーをしたときにも声をかけました」
「またやってたんですか。凝りませんねぇ」
何も知らない営業部第二課の社員たちは、にぎやかに飲み物のオーダーを取っている。そんな様子をぐるりと見ながら、奥の席に追いやられた真木と佐々間はひそひそと小声で会話をしていた。
「まあ、来なくても良いんです。ただ、いつか気が向くかもしれませんから、また開催はしますが」
「課長の面倒見の良さもそこまで行くと聖母ですよほんと……」
呆れた佐々間のもとに、注文したビールが届いた。佐々間はいつも瓶ビールだ。どこのメーカーのものであれ、ジョッキでは口に合わないらしい。対して真木は味をまったく気にしないから常にジョッキである。それを知っている周囲は、どうやら勝手に注文をしてくれていたらしい。真木の前にもビールが届くと、続々と他の社員たちにも飲み物が届いていた。
全員に飲み物が届いていることを確認した八代は、「課長、乾杯お願いします」とにこやかに真木に目を向ける。
「はい。みなさん、今週もお疲れ様でした。今日も楽しく、気が済むまでたくさん飲んでくださいね。乾杯」
真木の言葉を皮切りに、そこかしこからグラスのぶつかる音が響く。
営業部第二課は酒豪が多く、佐々間も酔っ払いはするが結構飲めるクチである。一番弱いのはむしろ真木で、得意先との飲み会への参加が減ってからは酔いが早くなっていた。
だからこそ、第二課の飲み会では早い段階から酒が頻繁に注文され、そしてみんなの声も大きくなる。二時間が経つとすっかり場は出来上がり、比較的若者の多いテーブルでは、なぜか平岡が踊っていた。
「そうだ課長、あれ、やってみたんです」
八代がそう言うと、向かいに座っていた三上も「あたしもやりました」と乗っかる。
「あれって何でしたかね? 僕、何かお願いしていましたっけ」
「ほら、得意先に意地悪言ってみろってやつです!」
「ああ、それですか」
八代の声が聞こえたのか、他のテーブルからあの朝集まっていた社員たちがぞろぞろとやってきた。そして口をそろえて「俺もやった」「私は昨日ちょうど行く機会あったからそのときに言ってみた」などとそれぞれが報告する。表情は明るい。酒の力ではないそれに結果を察した真木は、あえて「どうでしたか」なんて聞いてみた。
「課長に言われた通り、今担当の変更を社内で検討してるって言ったんですよ。そうしたら、得意先の人慌てちゃって。自分じゃないと困るって言ってくれたんです」
「八代くんとこ、明らかにべったりだもんね。あたしのところはさ、私じゃダメですよねやっぱり、検討しますねって悲しい顔してやったら、『冗談だよ冗談! 本気にしないでよ』って!」
それぞれが嬉し気に告げる中、真木は驚いた様子もなくうんうんとうなずいている。
「全部分かってたんですか、課長」
「ふふ、だって僕は、きみたちが得意先からどう思われているのかを知っていますから」
あまりに余裕のその態度に、得意先に意地悪を言ってみたメンバーたちは参ったと言わんばかりに眉を下げた。
「有名な人が近くに来ると、どうしても興奮してしまってね、後先考えずに発言をしてしまうものなんですよ。だから失敗してしまうこともあるし、勘違いをされてしまうこともあります。それを見極められたら、きみたちはもっともっと成長しますね。伸びしろしかありません」
「なんの話かは分からんけど、おまえら泣くな~。面倒くせえぞ~」
「一番の課長信者の主任には言われたくありません。ちょっとありがたいお話の邪魔なので黙っていてください」
「誰が信者だコラ」
そんなことを言うくせに、佐々間は軽く笑いながらグラスを呷る。
「はぁ、本当に一生課長について行きます。あとはあの染谷さえどうにかなればなぁ」
「ねえ聞いてよ、この間なんだけど、プレゼン資料コピーしてたら『まだ終わらないんですか?』ってすっごい圧かけてきたの。もーほんっと可愛げが無い」
「いちいち偉そうなんだよな」
「課長、どうしたらあいつは変わってくれるんですか? このまま平行線だと結構きついんですけど」
直接面倒を見ている八代だからこそ思うことも多いのだろう。うんざりとしたような表情を浮かべ、まっすぐに真木に問いかける。周囲もどうにかしてほしいと思っているのか、答えを待つように沈黙していた。
「……そうですねぇ。残念ながら、他人は変えられません。そういうものなんです」
「だけど変わってくれないと、あの空気感で仕事やり辛いんです」
「うーん……少し、考え方を変えてみましょう」
ゆっくりとビールを飲んだ真木は、伝え方を考えるような間を置いた。
「みなさん、想像してみてください。外回り中に突然大雨に降られてしまいました。スーツと靴は今朝おろしたばかりの新品で、天気予報では晴れと聞いていたので傘も持っていません。残念ながら近くにはコンビニもなく、雨宿りできそうな場所もない。そんな中犬の糞を踏んでしまって、さらに近くを通りかかったトラックに泥水を大量に散らされました。体も冷えてきましたが、それでもなんとか歩いていたら、今度は背後からわき見運転の自転車に突き飛ばされて転んでしまいます」
「最悪じゃないですか……世界を呪いたい……」
「あたしなら何もかも嫌になってそのまま家に帰ります。何やってもうまくいかない気しかしないんで」
きちんと想像したのか、みな一様に嫌そうな顔をしている。
「そんなみなさんの目の前に、綺麗なスーツ、靴を身に着けた、姿勢も良くて、傘もさしている人が歩いてきました。どう思いますか?」
「憎いです。ただ歩いているだけなのに、どうしてこの人はこんなに綺麗でうまくいっていて、自分だけこんな目に遭わないといけないんだって思ってしまいます」
「そうですね。おそらく、まったく罪のない、まったく関わりのない人に対してでも、そう思ってしまうと思います」
みな同じ気持ちだったのか、八代の回答にうんうんと頷いていた。
それをぐるりと見渡して、真木は口を開く。
「普段は何も思わないのに、自分の状況が変わると相手が憎らしく思えることはあります。それって、心に余裕がないからだと思うんです。心に余裕があれば、他人が綺麗なスーツを着ていても、綺麗な靴を履いていても、傘をさしていても何も思いません。ただ、自分の心に余裕が少しもないから、トゲトゲしてしまったり、間違えてしまうことはあります」
思い当たることがあるのか、そのテーブルだけ静まり返っていた。
「だからこそ、余裕のある人が一歩だけ後ろに下がってあげるんです。助けろとは言いません。ミイラ取りがミイラになることが一番愚かですから。だから一歩下がった先で、その人に合う言葉や態度で、傘をさしてあげるんです。その人が濡れている事実は変わりませんが、もう雨には打たれません。そしてその人が自分で立ち上がるのを見守ってあげてください。気が付けばその人は立ち上がって、自分の力で歩いていますから」
コン、と、やけに軽い音がした。佐々間が空のグラスをテーブルに置いた音だった。
「オレたちもそうでした?」
「ふふ、そうでしたよ。だけどきみたちはとても強いから、想定よりも早く自分の足で立って、僕の助けなんか要らないくらいにはたくましく歩いてくれています」
鼻をすする音が聞こえた。それは八代や三上、増田と、あの朝真木に抗議した数十名である。
酔っていることもあるのだろう。どうやら涙腺が緩くなっているらしい。
「確かに。自分も課長に甘やかしてもらってたのに、誰かに返せてない」
「なんか自分のことばっかり考えてたかも。……自分の感情ばっかりで、相手のことなんか少しも考えてなかった」
「染谷がうちに来た時点で、ワケアリだって分かってたはずなのにな」
しみじみと呟いて、何かを考えるようにみんな数度頷いていた。怒ったような表情をしている者は居ない。その様子に安堵した真木は、ご機嫌にジョッキを傾ける。
「よし、染谷呼ぼう。連絡先知ってるやつ居ない?」
「知らないかも。課長とか主任は? 知りません?」
「オレが知るわけねえ~」
「ですよね~」
佐々間の周辺が大きな笑い声をあげていると、それを裂くようにガラガラ! と居酒屋の引き戸が開く音が聞こえた。
時刻は二十一時。今日は貸し切りのような状態だから来るとしたら第二課の社員になるが、二十一時から参加をするような社員は居ない。
視線が一気に入口に集まった。そこに立っていたのは、ジャケットを腕にひっかけた、気まずそうな顔をした染谷だった。
「染谷! 染谷だ!」
「染谷さん! ちょうどよかった!」
「え、え? なんですか、ちょっと、引っ張らないでください」
サンダルを引っかけて染谷のところに移動した八代は、すぐに染谷の手を引いて自身の席に連れていく。
「染谷くん、来てくれてありがとうございます。ちょうどみんな、染谷くんと飲みたいと言っていたところだったんですよ」
八代に連れられた席には、近くに真木も座っていた。真木を見つけた染谷は心なしか目の奥に安堵を滲ませる。
「そう、染谷、今日は飲もう。一緒に飲もう。ほら、これまでのことは悪かった。こっちの配慮が足りてなかったよな」
「ごめんね染谷さん。ほらこれメニュー。好きな飲み物頼んじゃってよ」
「いや、なんですか本当……」
メニューを出されたり箸や皿を渡されたり、挙句料理を取ってくれたり、まさに至れり尽くせりな状況に染谷は終始戸惑っていた。時折助けを求めるように真木を見ていたが、真木はそんな染谷に気付いていながら、何も言わずご機嫌にビールを飲んでいるだけである。
真木は心底嬉しくて、その日は佐々間に言われるがままにセーブすることも忘れて飲み続けた。飲み続けて飲み続けて、そうして店を出る頃にはすでに体から力は抜け、足元もおぼつかない状態である。
「……誰ですか、こんなに飲ませたのは」
同じ社宅だからと染谷に押し付けられた真木は、支えるだけでもなかなか重たい。染谷は酒を飲まなかったから、はっきりとした意識の中で周囲の酔っ払いたちを睨みつけていた。
「いやだってさぁ、課長いっつも飲まねえのに、今日はめっちゃくちゃ飲むもんだからさぁ、仕方ねえよなぁ!」
「楽しかったですねえ佐々間主任! カラオケ行きましょうよ!」
「えーあたしも行く! 二次会行く人~!」
恨めし気な染谷を置いて、酔っ払いが賑やかしく二次会へと向かう。当然染谷は二次会に行くつもりもないし、かと言ってこんな状態の真木だけを二次会に置いていくこともできない。
染谷にもたれかかりむにゃむにゃと何かを言っている真木を見下ろして、染谷はひとまず家に戻るかとマンションへ足を向けた。
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