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第8話
真木は、軽快な調理音で目を覚ました。
トントンと、リズミカルな小気味良い音である。幸いにも二日酔いはなく、ぼんやりとしたまま、ひとまず上体を持ち上げた。
「あれ……なんか部屋が違う……」
「起きたんですか」
寝室を仕切っているはずのすりガラスの戸は今は開けられ、キッチンの様子がよく見える。キッチンには染谷が立っていた。
「あ、あれ? おはようございます、染谷くん。どうして染谷くんが……えっと、ここは……」
「俺の部屋ですよ。覚えてないんですか、昨日のこと」
「昨日……?」
なんとか思い出そうとするものの、染谷が居酒屋に来てくれて、みんなと楽しくお酒を飲んだ記憶が最後である。何も思い出せない様子の真木に気付いた染谷は、スッと目を細めた。
「へー……覚えてないんですか」
「いや、すみません、その……染谷くんが怒っているということは、その、粗相をしでかしてしまったということですね?」
「……はぁ。ひとまず顔洗って来てください。朝飯、もう出来ますから」
「う、はい。すみません」
ベッドから出るとシャツ一枚という格好だったが、この際贅沢は言っていられない。真木は気にすることなく洗面所に向かった。その時間で染谷は朝食をテーブルに並べていく。
「二日酔いは?」
ダイニングテーブルに座った真木への染谷からの一言目は、なんとも優しいそれだった。
「ありません」
「ふぅん。良かったですね、あんだけ酔ってたのに」
いただきますと二人で手を合わせ、向かい合って朝食を始める。
お味噌汁に生野菜、卵焼き、煮物とお漬物。そして焼き鮭までついていて、しっかりとした和の朝食だった。
果たして、昨日のことには真木から触れて良いものか。染谷の様子を見るに、とんでもない醜態を晒したことは間違い無いだろう。年上として、そして上司としてなんとも恥ずかしいことである。だからこそ聞くことを躊躇ってしまい、真木から触れても良いものかとつい躊躇ってしまう。
「聞かないんですか、昨日のこと」
「うっ、いえ、聞きたいです。ですが少々怖いと思うところもあり……その、僕は何をしでかしたんでしょうか」
なんとか冷静になろうと、真木は味噌汁に手を伸ばす。
しっかりと味のついた、野菜多めの味噌汁だった。天は染谷にスポーツの才能だけでなく、さらには外見だけでもなく、料理の腕まで与えたらしい。アンバランスな世の中である。
「その前にいっこ、確認なんですけど」
綺麗な所作で食事を進めながら、染谷が問いかけた。
「真木さんて、男が好きなんですか?」
カン、と、真木の箸先が皿に触れ、行儀の悪い音を立てた。
染谷がそれを聞いてくるということは、昨日、真木が染谷に対して何かを言ったか、しでかしてしまったということである。真木は青ざめながらも、いつものように「そうなんですよ」と告げようとするのだが。
なぜか、うまく言葉が出ない。平岡に伝えたときには、あんなにもすんなりと言えたはずだ。
真木が口をはくはくと動かしているのを、染谷がじっと見ていた。
「……ああ、なるほど。今の反応で分かりました。別に誰にも言いませんよ」
「あ、ちが……ごめん、なさい……その……き、気持ち悪い思いをさせたんですよね」
自分は何を言ったのだろうか。真木は昨日のことを必死に思い出そうとするけれど、どんなに頑張っても思い出せない。
「すみません……あの、人事に言えば、異動もできますので」
「……はあ? なんで異動するんですか」
「いえ、その……」
「気持ち悪いとは思ってもいませんし、人事にも言いません。それより早く飯食ってくれますか」
おそるおそる染谷を見るが、染谷の表情には確かに嫌悪は浮かんでいない。
どうやら言葉に嘘はないらしい。真木はほっとして、ようやく食事の手が動く。
「酒、控えたほうがいいですよ」
「はい。すみません、本当に。……昨日はつい楽しくなってしまって」
「俺はあんたが余計なことをみんなに言ったせいでとんでもない目に遭いましたが」
「余計なことですか?」
「俺と仲良くするようにとか言ったんでしょ?」
キョトンとする真木が言葉を返すより早く、「隠さなくてもいいですよ」と染谷が先手を打つ。
「俺、ほんとに強がりでもなんでもなく、別に浮いたままでいいんですよ。むしろ辞めるかもしれないのに歓迎されても逆に居づらいというか」
「……僕、何も言っていませんよ? 気がつけばみんなが、染谷くんを呼べーって言い始めてました」
「…………ああ、そーですか」
早い段階で何を言っても無駄だと悟った染谷は、それ以上は何も言わなかった。
食事を終えると、真木は早々に染谷の部屋を出た。最後に念を押すように「酒だけは絶対に控えてください」と鬼気迫るように言われたが、それの意味はよく分からない。
真木はようやく自身の部屋に戻り、玄関先でずるずると座り込む。
「はー……良かった。気持ち悪がられていなくて」
さすがに後出しは申し訳なかったが、ひと晩泊めた相手の恋愛対象になり得るとは、染谷だって考えたくもないだろう。おまけに上司だ。それにうんと年上である。おそらく昨晩染谷にそれらしいことを何か言ったのだろうが、染谷が言及しなかったから真木からは恐ろしくて聞けなかった。
「ひとまずシャワー……」
まだどこか気怠い体に力を入れて、真木はひとまず風呂に向かった。
*
月曜日の朝。いつものようにビルの一階でエレベーターを待っていると、のろのろと佐々間がやってきた。やはり眠たげだ。月曜に限らず常に眠たそうだから、朝が弱いだけなのかもしれない。
「おはようございます、課長」
「おはようございます、佐々間くん。今日も眠たそうですね」
「まぁ……昨日はゲームに熱中しちゃって。気がつけば五時でした」
「今日はきちんと寝てくださいね」
「はーい」
そう言いながら、佐々間は大きなあくびを漏らす。
「……まあ眠たいんですけど、先週の月曜よりは少しは気分いいですよ。染谷のこと、ちょっとは考えてやろうと思えたんで」
「それは良かったです。佐々間くんは思いやりのある方なので、きっと染谷くんともすぐにお友達になれますよ」
「いや、友達にはならんでいいです。あくまでも部下で」
きっぱりと線を引いた佐々間にはさすがに何も言えず、真木も話題を変えることしかできなかった。
金曜の飲み会があったからか、オフィスでの染谷への対応にさっそく変化があった。
まず、オフィスにやってきた染谷に、社員が挨拶をするようになった。もちろん全員では無いが、これまで挨拶すらしなかったことを思えば大きな一歩である。
そこかしこから「おはよう」と言われることに慣れていないからか、染谷は言葉を返すことなく、軽く会釈をしながらデスクに向かっていた。
そして、隣の席の八代も。
「染谷おはよう。今日からまたよろしく」
「…………はあ」
朝から暑苦しくも、八代が強引に染谷の手を奪い、熱い握手を交わす。
染谷はここまででも随分と居心地は悪かったが、挙げ句の果てには、
「いつも資料作成してくれてありがとな。染谷の資料はすごく見やすいし、プレゼンもしやすいよ」
「…………どうでもいいので、次の仕事の指示送っといてください」
「悪い、すぐ言うよ。染谷は作業が早いなぁ」
いや、言うのではなく今まで通りチャットで送ってほしいという意味だったのだが、なぜか八代には伝わらなかったようだ。
ことあるごとに挟まれる褒め言葉。そして染谷が厳しい口調で何かを言うと浮かべる、まるで反抗期の息子を見守る母親のような表情。それは八代に限らずで、なんだかオフィスの居心地が悪い。
染谷さん、コーヒー飲みます? 染谷、コピー用紙入れてくれたんだな、ありがとう。染谷はすごいよ、資料のデザインがいつも見やすいんだ。チョコレートどうぞ、疲れてません? 朝の時間だけでも多く声をかけられ、居心地の悪さを通り越してもはや疲労すら覚える。染谷は本社に居たときにもこんなに話しかけられたことはない。出社する社員でなかったからというのもあるが、そもそも染谷が本社を歩いていても、周囲からは一歩距離を置かれていた。
それはもちろん、染谷がチームのエースであり有名人でもあるからなのだが、染谷自身は預かり知らない事情である。
「染谷、一緒に昼飯行かないか。おすすめのカフェがあるんだよ」
昼休憩に入った直後、八代がにこやかに染谷を誘う。
この状況が昼休憩にも続くなどたまったものではない。染谷は心なしかげっそりとした顔で振り向いた。
「すみません、俺はあの人と昼に行くので」
「へ? 僕ですか?」
「いいから行きますよ。今のあんたに拒否権はありません」
立ち上がった染谷はまっすぐに真木のデスクに向かい、強引に腕を引っ張り上げた。
そのまま真木が引き摺られていくのを、「課長が相手なら仕方ないな」とまた見守るような表情を浮かべ八代が見送っていた。
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