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第9話

 染谷がやってきたのは、一本入った裏通りの、小さな喫茶店だった。天井では大きなプロペラが回っている。外観は古かったが内装はそれなりに綺麗で、連れられた真木は興味津々に店内を見ていた。 「どうにかしてくださいよ、あの人たち。正直鬱陶しいです」  座って早々、染谷は苛立った調子で伝える。 「どうにかするとは、何をですか?」 「俺にしつこく構ってくることですよ。居心地が悪くて仕方がない」  メニューを眺めながら、染谷はコツコツとリズムよく人差し指でテーブルを打つ。しかし苛立ったようなその仕草にも臆しない真木は、不思議そうな顔で目を丸くしていた。 「そうですか……僕から伝えても良いですが、たぶんみんな言うことを聞かないと思いますよ」 「…………なんとかしてください」 「ふふ。辞めるならいいじゃないですか、少しだけの辛抱です」  まったくまともに取り合ってくれないまきは、微笑みながら「決まりました?」と話題を変えた。  注文をとりにきたスタッフが、染谷を見て頬を赤くする。そんな様子を見ながら、真木は改めて彼が有名人であり目立つ存在であることを再認識した。 「……あんたってずっとそんな感じなんですか」  ずっと口を閉じていた染谷が口を開いたのは、注文した料理が届いた直後だった。  箸を持った真木は、声をかけられて染谷に目を向ける。  それまでは気まずそうに口を閉じていた染谷が、今はまるで昨日の朝のような、少しだけ探る目をしていた。 「そんな感じとは?」 「いや、なんか……雰囲気は柔らかいしとっつきやすいんですけど、正直掴めないんですよね。何を言われても本音じゃない感じします」  一瞬、真木は自身が何を言われたのかを理解ができなかった。  口から空気だけが抜けていく。音の乗らない空気はほんの少しだけ間を作ったが、真木はすぐにいつものように微笑んだ。 「僕は本音しか言いませんよ」  真木を見る染谷の目が真っ直ぐで、今度は真木の居心地が悪い。しかし悟られないようにと目を逸らさず、真木は首を傾げる余裕さえみせた。 「……敬語抜けたときのほうがよっぽど本音くさいですね。俺が初めてサーブ打ったときと、昨日の夜」 「……き、昨日の夜……」  ぴくりと、真木の眉が揺れる。  昨日の夜に何があったのかを、真木は知らない。自身が男を好きということがバレたからそれらしい会話をしたのだろうが、残念ながら記憶のどこにも残っていない。  何があったのか気になってはいるが、知りたくないと思っていることもまた本音である。  まさか今その話題に触れられるとは思ってもおらず、真木はつい表情を崩しそうになった。しかしなんとか持ち直す。そんな真木を見て、染谷は軽く舌打ちを鳴らした。 「……昨日の夜はすみません、ご迷惑をおかけしたようで」 「キス」 「…………はい?」 「キスされました。あんたに」  鋭い目が、真木を射抜く。怒っている感じではない。ただその意図の読めない目は真木から逸らされることはなく、真木は今度こそそれに耐えかねて目を伏せた。 「……あ、いや……それは、あの……ごめんなさい。えっと……最低なことを……き、気持ちが悪かったと思う、し、殴られても……」  言葉尻が震える。シンと落ちた間は重たく、真木は目を上げられない。  すると少しして、真木の向かいから優しく息を吐く音が聞こえた。 「……ふ、ふふ、はは! 気持ち悪いと思ってないって言ったじゃないですか。あんたがポーカーフェイスで腹が立ったから掘り返しただけですよ。焦った顔が見られて満足です」 「そ……んな、もの見たって……」 「なんでですかね、今結構気分いいです」  満足げに笑いながら、やけに綺麗な仕草で染谷が箸を進めている。そんな様子を見ていた真木は、予想外の反応をされて何も言えなかった。 「まあ正直、キスしてすぐに寝こけたあんたを起こそうとはしましたけど」 「そ、そうですよね、そうだと思います。男の上司の、しかも僕みたいなおじさんからそんなことをされたら……」 「そうじゃなく。やり逃げってのがなんか……一応ファーストキスだったんで」  かちゃん、と、真木の手から落ちた箸が、皿に当たって軽い音を立てた。行儀が悪いということにも頭が回らず、真木はただ信じられない顔をして染谷を見る。 「え、え? 染谷くん、え、初めて……?」 「? はい。バレーにしか興味なくて、恋愛とかしたこともないんですよね。正直、必要性も感じませんし、恋愛ってメリットあります?」  異性から多く求められる見た目と体格、バレーの才能すら手にした染谷拓海が、キスをしたことがないだけでなく、恋愛すらしたことがない……?  「あ、はい、良いと思います。必要性を感じないことも別に……メリットは確かにないかもしれませんね」  いや、そうではなく。そんなことが言いたいわけではないのだが、先ほどから思いがけない会話の連発に、真木の脳みそがうまく処理をしてくれない。  真木はなんとか「すみません、そうではなくて」と言葉を続け、慌てて笑みを貼り付けた。 「その、キスをしてしまったことはすみませんでした。忘れるのは難しいかもしれませんが、それをファーストキスとして換算する必要はないかと思います。本当にすみません」 「……だから、気にしてませんから」 「それなら、良いのですが……」  会社の部下に手を出すなんて最悪である。真木は異動後からはきちんと線引きしていたし、真木こそ恋愛なんてもうしないと固く決意していた。それなのによりにもよって部下である染谷に迫るなど、酒の勢いでなんでことをしてしまったのか。  テーブルに落とした箸を拾い、緩慢な仕草で食事を再開する。そんな心ここに在らずな真木を染谷がじっと見ているなど気付くこともなく、真木は平静を装って手を動かす。 「あんたにとってはどうなんですか」  真木の未だ落ち着かない胸中など関係なく、染谷がぽつりと問いかける。 「どうとは、な、何がですか?」 「恋愛。元カレとかいるんですよね?」  元カレ、という単語に目を泳がせた真木の様子に、染谷は畳み掛けるように口を開く。 「真木さんにとって、恋愛はメリットあるんですか」 「……これから恋愛をする染谷くんには、男同士の話なんてつまらないものだと思いますよ。意外です、上司と恋愛の話をするタイプでもないと思っていましたが」 「……まあ、そうか。別に、どうなのかなって思っただけなんで、そんな顔されるくらいなら言わなくていいです」 「そんな顔……」  真木は反射的に自身の頬に触れるが、当然ながらどんな顔をしていたのかは分からない。染谷もそれ以上触れるつもりはないらしく、それからは何も言わずにがつがつと食事をかき込んでいた。  二人にあまり会話はなかった。もともと染谷はしゃべるタイプでもないし、逆にいつもよくしゃべる真木は、どこかぼんやりとしていた。  染谷は別に、真木を困らせたいわけでも、苦しめたいわけでもない。だけど真木が何も言わなかったから、なんとなく染谷から声をかけることも出来なかった。  その日、オフィスに戻ったあとから、真木は染谷を避け始めた。もちろんあからさまなわけではない。おそらく当人である染谷がほんの少し違和感を抱くだけというほどには徹底して分かり難く、周囲には少しも悟らせないほどである。  水曜と金曜の、二人のバレーの時間もなくなった。代わりに最近染谷に構い始めた同僚たちが訪れるようになり、それまでよりも賑やかとなった。  染谷には、何が悪かったのかが分からない。何がきっかけで真木が自身を避けているのか、隣の家の玄関の音が聞こえるたびにそんなことを考えては、何も分からなくてため息を吐き出す毎日である。  直接真木に聞いてみても「避けているつもりはありませんが、すみません、そんなことを思わせてしまって」と、白々しく謝罪された。本人に聞いても無駄だと分かった瞬間だった。

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