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第10話

 そんなこんなで二週間。何故なのかと考えていた染谷は、だんだんと腹が立ってきた。  そもそもなぜ染谷が悩まなければならないのか。本人は「避けていない」と言っているし、日常生活にも特に問題はないのだから、それでいいはずである。  そうだ、考えるのをやめよう。これまで通り過ごせば良いのだ。  染谷は真実、そう思っていたのだが。 「おはようございます、佐々間さん」 「うお! おはよう染谷、珍しくはえーな。いやオレも珍しく早起きしちまったからはえーけど。……なに、なんか用あったか」  オフィスビルの一階、エレベーターの前で眠たそうに立っている佐々間の姿を見つけて、染谷はつい声をかけてしまった。 「……用というか」  エレベーターがやってくると、佐々間は当然、乗り込むかと踏み出した。しかしそれは染谷によって阻まれる。背後から腕を引かれ、佐々間は驚いたように振り向いた。 「んだよ、行くぞ」 「あー、いや……あ、先行ってください」  エレベーターに乗り込んでいた社員に声をかけた染谷に、佐々間はじっと細めた目を向けた。 「佐々間さん、階段で行きませんか」 「無理だろ。よく考えろ、オフィス八階だぞ」 「行きましょう」 「聞こえてねえのか? 嫌じゃなくて無理なんだよ。こんな朝っぱらからなんでそんな……おいこら引っ張んな!」  佐々間よりも体格のいい染谷が容赦なく腕を引くと、佐々間もついて行かざるをえない。しかしそんなに強い抵抗をしないのは佐々間の優しさか、うんざりとした様子を見せながらも、普段はまったく使われない近くの非常階段へと大人しく連れられた。 「おまえ正気かよ。オレもう三十代も半ばだぞ」 「早くしないと遅刻しますよ」 「はー、会話できねー」  軽い足取りで階段を上っていく染谷に続いて踏み出したが、当然ながら佐々間は遅い。途中からはスピードダウンが顕著で、三階に着いた頃にはすっかり息が上がっていた。 「早く来てください」  染谷の姿はすでに見えない。しかし声だけが佐々間に届いたため、佐々間は見えない相手を睨むように上を見上げた。 「おまえなぁ、現役のスポーツ選手に追いつけるわけねぇだろうが! つかどこいんだよ」 「五階です」 「はえーよ。そこに行くまで三十年かかる」  少し休憩とばかりに足を止めていた佐々間の耳に、軽やかな足音が届く。どうやら染谷が、様子を見に戻ってきたようだ。 「おそ、まだ三階でしたか。フットサルやってるんですよね?」 「フットサルでも絶妙に体力ねぇよ」  一段一段、休憩をしながら上る佐々間を見て、染谷は馬鹿にするどころか呆れたような表情を浮かべていた。 「普通におまえがオレに合わせろ」 「……並んで上るのは絵的にキツいので無理です。少し上を歩きますね」 「言うじゃねぇか……」  息を切らしながら手すりを使い上る佐々間と、佐々間の少し上を余裕そうに上る染谷。少しの間会話は無かったが、待つように黙っていた佐々間はとうとう、染谷に聞こえるように大袈裟にため息を吐いた。 「おまえさぁ、なんか話したいことあったんじゃねぇの? 早く言えよ、のんびりでもオフィス着いちまうぞ」  染谷は横目に一度振り向いたが、すぐに佐々間に背を向けた。 「……真木さんって、昔からあんな感じなんですか?」 「……はあ? 課長? あんな感じってどんな感じだよ」 「なんというか、でっかい壁があるみたいな」  たん、たん、と軽やかな足跡と、あまりにも重たい足音だけが階段に響く。 「……なんでそんなことが気になんだよ」 「……別に、なんとなく。気になっているわけではなく、なんか腹が立つので」 「課長に惚れたとか言わねえよな?」  佐々間の言葉に、染谷の足が止まった。  考えるような間を置いたが、染谷は再びゆっくりと階段を上り始める。 「いや、少し考えてみましたけど違いますね。真木さんは男ですし、十五も歳上ですし。ただ本当に何故なのかが気になっただけです」 「……あっそー、まぁぜひそうであってくれ。歳下で部下とか、課長にとっては地雷でしかない」 「地雷?」 「……でっかい壁とやらな、その地雷とも関係してる。オレも人伝でしか知らねえけど、当時本社に居た同期に聞いたからおそらく間違いねぇ話」  五階の踊り場にようやく辿り着いた佐々間は、すでに六階への階段に数段踏み出している染谷を見上げ、一度呼吸を整える。 「……おまえ、どこまで知ってんだ? 課長の恋愛対象の話とか」 「ああ、同性が好きということは聞きました」 「ならいい。課長な、本社に居た頃、恋人が居たらしいんだよ。当時は今ほど明け透けにもしてなかったから、同性の恋人が居ることは隠してたらしいんだが……ある日、課長の恋人が同性だってことがある部下にバレてな」 「あー、噂が出回って居辛くなったとかですか?」 「そのほうがまだマシだ。そいつ、課長に惚れてたらしくて、課長のことを逆恨みし始めたんだと」  佐々間はぎゅっと眉を寄せ、苛立ったように息を吐く。視線は染谷には向いていない。話を思い出しているのだろう。 「表向きは穏やかだったらしい。だから課長も、周りの誰もその部下の変化に気付けなかった。それこそ、その部下が課長の家に押しかけて、課長の恋人を刺すまでな」  染谷の目が、驚きのままにゆっくりと見開かれる。 「そいつは捕まったが、本社にその話が出回ってな。課長が男を好きなことも、男の恋人がいたことも、部下が課長を好きだったことも全部、全員が知ることになった。……同期が言うには、当時の課長は見てられなかったらしい。恋人が刺されたってのもあるのかもしれねえが、周囲が好き勝手言ってるのが酷かったんだと。課長が部下をたぶらかしただの、道を外させただの、胸糞わりぃ」 「……それ、九年前ですか?」 「んや、十年前だな。課長がここに異動したのは九年前らしいが」  ――こんなに若い子でも自分のやりたいことや将来に向けてまっすぐ進んでいるのに、自分は何をしているんだろうと、ハッとさせられたんです。  染谷は真木の言葉を思い出し、少しばかり違和感を覚えた。  佐々間から聞いたのが真木の過去として、言われた言葉が少々ズレているような気がする。真木のような過去を持つ人間が春高優勝校の密着取材を見て、果たしてあんなことを思うだろうか。 「ま、そんなことがあったから、課長は部下との距離間を大事にしてんだよ。絶対に敬語は抜かねえし、ポーカーフェイスも崩さねえ。会社の人間とはあくまでも『仕事』としてしか関わろうとしねえようになった。自分が男が好きだってことも隠さねえ、そんな課長が受け入れられねえ奴が異動したいって言えばすぐに出してやってる。……課長は普段めちゃくちゃ優しいけど、一番オレたちを拒絶してんだよ」 「……そうですか。理解しました」  二人が階段をゆっくりと上っていたからか、八階に着く頃にはすでに出社時間ギリギリとなっていた。話を聞けた染谷はもう佐々間に用がないのか、振り返るような素振りも見せない。そんな染谷のあからさまな態度に腹が立ったのか、佐々間はなんとか染谷に食らいついて歩いていた。 「わ、佐々間くん、染谷くん、おはようございます。今日は二人で出社されたんですね」  オフィスまでの道すがら、佐々間と染谷が資料室の前を通過しようとしたとき、資料室の扉が開いた。  今日も鍵の確認をしていたのだろう。出てきた真木は、並んで出社している二人を見て嬉しそうに笑う。 「おはよーございます課長、誤解しないでください、こいつと出社したわけじゃないです、仲良くないんで」 「おはようございます、本当にその通りです。たまたま時間が被っただけで」 「てめえがオレを呼び止めたんだろうが」 「何の話ですか?」 「ふふ、仲良しじゃないですか」  クスクスと笑う真木を、染谷がじっと見下ろしていた。その仕草に気付いたのは佐々間だけだった。真木は自身のスマートフォンが震えたのを感じて、そちらに気を取られたからである。  真木のスマートフォンの液晶には「栄田専務」と表示されていた。 「……へぇ、専務と繋がってるんですか」  染谷の口から、なんとなく嫌な響きを持った言葉が落ちる。  真木の過去を知らなければ、自分にバレーをさせるためにやっぱり上と繋がっていたのか、と思えたものだが、あんな過去があるのなら専務と繋がっていても不思議ではない。事件をきっかけに異動をしたのならなおさら、栄田も真木を気にしているのだろう。  だから染谷は真木と栄田と繋がっていても納得できたのだが、真木は正しく勘違いしたのか、染谷に「元本社ですから、気にかけてもらっていて」と言い訳めいた言葉を伝えた。 「業績が上り調子だから、何をしているんだと対策をよく共有させられます。それでは二人とも、僕は電話をしてからオフィスに戻りますね」 「はーい」  返事をしたのは佐々間だけだった。佐々間は真木を気にすることなくオフィスに入っていく。  染谷はただ、オフィスから踵を返してどこかに向かう真木の背中を、感情の読めない表情で見送っていた。

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