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第11話

 真木がやってきたのは、オフィスから少し離れた場所にある会議室だった。  朝一番に利用する部署はなく、それを把握していたから、真木は確認することもなく中に入る。 「はい、ご無沙汰しています、栄田さん」  会議室の奥にあるコーヒーメーカーにカップをセットしながら、真木はにこやかに通話に出た。 『久しぶり、真木。元気だったか』 「はい、おかげさまで。染谷くんも元気にしていますよ」 『……そうか。染谷は、本社に戻れそうか?』  栄田から、一番最初に「染谷を頼む」と連絡が来たのは、染谷が異動するひと月前のことだった。  染谷が思い詰めている。チームで孤立している。このままではチーム全体がダメになる。簡単にそう説明した栄田は、だからそっちに異動させようと思う、どうかおまえの力で染谷を立て直してほしい、と真木に伝えた。真木も最初は驚いたものだが、悩むことはなく、すぐに栄田の言葉にうなずいた。 「どうでしょう。まだ染谷くん自身、バレーとの距離を測りかねているようにも思えます。……ですが、最近はレク部の活動でみんなとバレーをしていますよ。僕は参加していないから分かりませんが、拒絶することもなく続けているようなので、なんだかんだ楽しんでいるのかもしれません」 『染谷がバレーを……それは随分成長したな。最後に私と話したときには、二度とバレーなんかやらないとすら言っていたが。さすが真木、おまえに任せて良かった』  コーヒーを淹れ終えると、真木は近くの椅子に腰かける。 「僕ではなく、染谷くんがバレーをやりたかったんですよ。彼はバレーをするために生まれてきたような人ですから」 『はは、そうかもな。……折を見て、こちらに戻るか確認してみてくれ。残されたチームメイトも、なんだかんだ染谷に頼っていたところがあるからボロボロなんだ。試合の成績も悪い。一体感もないし、調子が出ないみたいでな』  会議室のコーヒーは、実は真木が好きなメーカーのものを置いている。とびきり苦い、それこそ、シロップを三つも入れる社員が居るほどの苦さである。  しかし真木は眉一つ動かすことなく、味わう素振りもなく飲み込んだ。 「ふふ、分かりました。それとなくつついてみますね」 『助かるよ。……それで、真木はまだ本社には戻らないか』 「……僕が本社に?」 『何を驚いてるんだ、私はずっと言ってるじゃないか』  そうだったかなと、そんなことを考えながら、真木はもう一度コーヒーに口をつける。 「僕は本社には戻りませんよ。ここの居心地が良くて」 『おかげさまで地方成績ダントツで一位だよ……おまえが本社に来てくれたらもっと会社の成績が伸びるんだが……』 「嫌です。僕はここに居ます」 『分かった分かった、またタイミングを見て誘うことにする』  何度言われても頷くつもりはないのだが、栄田が頑固であることも理解している真木は、それには何も答えなかった。  やけに間が重たい。要件は染谷のことだけかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。しかし真木は急かすことなくゆっくりとコーヒーを飲む。 『あー……言いにくいんだが、伝えておいたほうが良いかと思うから、伝えるぞ』 「改まってどうされたんですか?」  静まり返った会議室に、真木の声だけが取り残される。  コーヒーは残り半分。なんとなく手持ちぶさたで口をつけてしまうから、あっという間になくなっていく。  そんなコーヒーを見つめながら、真木はぼんやりと「二杯目までにはならないかな」と、この電話の終わりを考えていた。 『つい昨日、宮下啓介が私に接触をしてきた。真木の居場所を教えてくれと』  真木の手がピクリと揺れると、残り少ないコーヒーも揺れる。 『個人情報だからもちろん教えていないが……名刺を押し付けられてな。昔一度、真木と退社したときに彼に挨拶したことがあっただろ、ほら、彼がオフィスビルまで真木を迎えに来てくれていたときだな。あのたった一度で私の顔を覚えていたらしい』 「……そうですか。啓くんは元気そうでしたか?」 『そうだな、十年経って随分大人になっていた。気になるか?』 「ふふ、いえ、啓くんが元気で幸せなら良いんです。別れ方が悪かったので、ずっと引っかかっていて」 『それだけか?』 「……それだけですよ」  コン、と、紙コップが軽い音を立ててテーブルに戻る。  コーヒーはすでに無い。すっかり冷えたカップに指先で触れながら、真木はぼんやりと目を伏せた。 『まあ、十年も経って私に接触したということは、相手方も何か用事があるんだろうよ。……彼の連絡先は私が持っているから、彼と話がしたくなったら私に言いなさい』 「……分かりました」  きっと連絡することはないだろう。確信めいてそう思っていたが、真木はそれを口には出さず、栄田の言葉に素直に頷いた。そうしてすぐに、真木はとあることを思いつく。 「……栄田専務、少しお願いがあるんです」  結局、真木がオフィスに戻ったのは、三十分後のことだった。  思っていたよりも長電話になってしまった。とはいえオフィスのことは佐々間が居れば何とかなると思っているから、特別焦っているわけではない。真木がのんびりとオフィスに戻ると、佐々間と、その正面に座る染谷のデスクの周囲に第二課の社員が集まっていた。 「どうかしましたか?」  全員、どこか表情が固い。佐々間は珍しく難しい顔をしている。  真木がやってくると、全員が安心したように目元を緩めた。 「ああ、課長。実は発注ミスがあって……」 「発注ミス?」 「自分から報告します」  前に出たのは八代だった。 「五日前、丸井製鉄に、以前契約が取れた新規製品の発注を投げたんです。今朝発注完了の旨がファックスで返ってきていて、製品はあっているんですが、構成部品を間違えて発注していました」  八代がファックスを差し出すと、真木はすぐに受け取った。  確かに一つ、新規製品には不必要な部品が紛れている。 「発注者は染谷くんですか」  発注者の名前を確認した真木のつぶやきに、慌てて声を上げたのはやはり八代だった。 「あ、いえ、自分が確認していなかったんです! その製品、二つ案があっだと思うんですけど、ダメになったほうの資料を渡していたみたいで、それを見て染谷が発注を」 「そうなんですか? 染谷くん」 「……いえ。八代さんは正しい資料を渡してくれていました。単なる俺自身のミスです。すみません」  染谷が深く頭を下げると、その場が一気に静まり返る。 「事情は分かりました。八代くん、きみがやっているのは悪いことです。染谷くんは八代くんに庇われて育ちますか?」 「……いえ、すみません」 「はい。分かっているなら大丈夫です。染谷くんは、部品は名前が似ていることが多いので、よく確認しましょうね」 「はい」  静かなオフィスでいつものように穏やかに告げた真木は、次にはパッと笑顔になった。 「では対策を立てましょうか。丸井製鉄への電話はしましたか?」 「はい! 朝一番で連絡をしました。ただこの部品、外注して製造するらしくて、外注先にはすでに連絡済みな上、ラインを押さえているから変更は無理だと言われました」 「なるほど……それでみなさん暗い顔をしていたんですね」  真木の言葉に、八代も肯定するように俯いた。 「佐々間くん、案はありますか?」 「んー……考えてたんですけど、二つあって、ただどちらも結構厳しいかもしれませんねぇ」 「いいですよ、聞かせてください」 「この部品、他の製品でも使っていないので使い回しもできないし、一つ目の案は、外注先にもひたすら謝って餌つけてでも強引に変更してもらうってところですね。ただ各方面の心象は良くないかなと。もう一つは、ボツになったもう一つの案を改めて提案しに行って通せばって思ったんですけど、一度ボツになっていることと、外せないプレゼンになるって考えれば厳しいですね」  佐々間が難しい顔で伝えた案は、確かにどちらも難しい。それを理解している第二課は、みな表情が晴れることはない。  しかし真木は「いいですね!」と手を打った。 「さすが佐々間くん、僕とだいたい同じことを考えていました。関係各社がみんな良い思いを出来るように、僕は二つ目の案で進めたいです」 「でも課長、あっちの案は得意先に予算NGを出されてます。今回発注した部品はその案の数量通りに出してますから予算は変わりません」 「ふふ、大丈夫ですよ。八代くんはこの後、僕と一緒に得意先に再プレゼンしに行きましょうか。佐々間くんは、プレゼンがうまくいくことを仮定して見積の修正をして部長に説明に行ってください」  第二課のどこかで「課長がプレゼンするんだ」と聞こえた。しかし真木は構うことなく、「みなさんは通常通り業務を続けてくださいね」と伝えると、 「八代くんは得意先にアポイントを取ってください。なるべく早い時間で、それが終わったらプレゼン資料を一緒に直しましょうか」 「……は、はい!」  ぼんやりとしていた第二課が、真木の指示で動き始める。真木もマイペースにデスクについた。  ちらりと染谷を見ると、申し訳なさそうな、気まずそうな顔をしてまた八代に謝っていた。  良い傾向だなと笑みを深めた真木は、改めてディスプレイ画面と向き合った。

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