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第12話
その日の第二課は、どこかそわそわとしていた。
午後三時。午後一時から例の得意先にプレゼンに出た真木と八代からの連絡はまだない。染谷も落ち着かないのかちらちらと佐々間を確認していたが、佐々間は気付いていないフリをしてやっていた。
「……佐々間さん」
声をかけられたのは、佐々間がオフィスを出てコーヒーを買いに廊下にある自販機に出向いたときのことである。
まさか追いかけてくるとは思っても居なかった佐々間は、自販機から取り出そうとしていた缶コーヒーを一瞬うまく掴めなかった。
「なんだ染谷か、驚かせんな。気配ねぇなおまえ……」
「いや、その、俺のせいですみません」
「別にいいって、誰も気にしてねぇよ別に。ミスなんか誰にでもあんだからおまえも気にすんな」
そう伝えても、染谷の表情は晴れない。
「……おまえもしかして、課長に迷惑かけちまったから気にしてんの?」
染谷の目が、まるで肯定するように佐々間に向けられた。
「あー、なるほどね。これ以上迷惑かけねぇように、角立たせねぇように謝って回ってんのか。殊勝なこったな」
「そういうわけでは……」
佐々間が自販機に小銭を入れ、染谷に向けて顎で自販機を指す。どうやら奢ってくれるようだ。すぐに察した染谷は、小さなペットボトルの緑茶を押した。
「おまえ、課長には惚れてないんじゃなかったか」
「すぐにそこに結びつけないでくださいよ。あんたの頭にはそれしかないんですか。意外とピンクですね」
「かー生意気。まぁそんぐらいのが助かるわ」
近くの椅子に佐々間が腰掛けると、少し開けて染谷も座る。微妙な距離である。二人の関係性を表しているようだ。
「知ってっか。課長は本社に居た頃、プレゼンを絶対外さねぇことで有名だったんだってよ」
「……あんな感じなのに、営業で押せるんですか?」
「バッカ、あんな感じだから押せんだろ。あの雰囲気だと押されてることに気付けねぇんだよ」
それなら今回も大丈夫かと、染谷は密かに安堵したところで、もしかして今「だから安心しろ」と言われたのかと横目に佐々間を伺う。
「あー、ミスった。これ微糖じゃねぇ。見ろよ、微糖とブラックの違い、ここに微糖って書いてあるだけだぜ? そのほかはまったく同じデザイン、誰が間違えねぇんだよなぁ」
「ないか……この人に限って……」
「おいなんか今すげぇ失礼なこと思わなかったか?」
ちなみに何回か間違えてっからカスタマーサポートに連絡は入れてる、と続けると、佐々間は仕方なくコーヒーに口をつける。
「戻んねぇのか、本社」
なんとなく聞かれたのだろうその問いかけに、染谷は軽く息を吐く。
「……別にオレにゃ言ってもいいだろ。残念ながら主任なんてもんはお偉方とは繋がれねぇし」
「それなら聞かなくてよくないですか」
「はー、おまえ雑談に意味はないとか言ってコミュニケーション取らねぇタイプ? つまんねー、チームで浮いてただろ絶対」
佐々間は何気なく言ったつもりだったのだが、染谷の眉がぎゅうと寄せられて地雷を踏んだのだと理解した。しかし吐き出した言葉は戻らない。この空気をどうするかと考えていた佐々間の耳に、もう一度小さなため息が届いた。
「浮いてましたよ。最後なんか特に最悪でしたね。俺のせいなんでしょうけど……嫌われてるんで、今頃邪魔者が居なくなって楽しくやってるんじゃないですか?」
「んなわけねぇだろ。試合確認してねぇの? うちのチームボロボロだぞ」
「今だけですよ。俺が抜けた穴を埋める手段さえ分かったら、あのチームは強いんで負けません」
「へぇー、そんでおまえはどうすんの? もうバレー辞めんのか」
ブラックコーヒーを一口含み、佐々間はやはり顔を歪める。
「……そのつもりですよ。会社も辞めるつもりですし」
「ふーん。で? 異動してから何ヶ月か経つわけだが」
「なんですか、早く辞めてほしいんですか」
「そうじゃねぇよ。……辞めたくねぇんなら変な意地張ってねぇでチームに謝りゃいいだろってこと。悪いとも思ってんだろ?」
さらに険しい表情になった染谷は、考えるような間を置いたあと、低い声で吐き出す。
「邪魔者の俺が、どんな顔してチームに戻るんですか。戻っても同じことですよ。俺が謝っても、受け入れてもらえなかったら意味ないですし。……ずっと辞めてないのは辞めたくないわけじゃなく、人生の半分以上バレーやってたんで、辞めどきが難しいだけです」
話は終わりだと言わんばかりに染谷は立ち上がった。
「……別のチームでやりゃいんじゃね? おまえなら引っ張りだこだろ」
「俺みたいなのはどこに行っても一緒ですから」
染谷がくるりと背を向けると同時、佐々間が胸ポケットに入れていた社用携帯が鳴った。
佐々間がすぐさま取り出すと、染谷も固い表情で振り返る。真木からの着信だ。ディスプレイを確認してすぐ、染谷は通話に切り替える。
「はい! 課長、どうでした?」
『お疲れ様です。プレゼンは予定通りうまくいきましたよ。実は追加で発注が必要なものがあって、これから八代くんが染谷くんに資料を送るので、染谷くんにすぐ発注かけるように伝えてもらえますか?』
「はぁー……了解です」
一気に脱力した佐々間は、行儀悪く椅子にだらりと横たわる。その反応を見て察したのか、染谷も分かり難くホッと安堵の息を漏らした。
『ふふ、部長のほうはどうでした?』
「前に出した見積からだいぶ金額上がったんでびっくりしてましたよ。でもまぁ売り上げ上がる分には悪いことはないので、特に突かれることもなかったです。ほんと、こんな危ない橋二度と渡りたくない……」
『たまにはいいですよ、僕も久しぶりに営業できて楽しかったですし。そうだ、八代くんですが、このまま直帰します。このあと丸井製鉄の工場のほうにも顔を出す予定で、帰りが遅くなりますので』
「了解ですー……お気をつけて」
『ありがとうございます。引き続き、オフィスを頼みますね』
通話が終わると、佐々間の腕もだらりと垂れる。
「上手くいったようで良かったです」
「良かったよほんと……染谷には八代からメールが届くぞ。追加発注があるからやっとけってさ。次は間違えんなよー」
脱力気味にひらひらと手を振る佐々間を置いて、染谷は早足でオフィスに戻った。
真木がオフィスに戻ったのは、定時を一時間過ぎた、午後七時のことだった。オフィスはすでに暗い。しかし薄ぼんやりとした光が一部に見えて、真木は誰が残っているのかと恐る恐る中に入る。
「あれ、染谷くん? どうしたんですか?」
残っていたのは染谷だった。染谷のデスク周りだけ電気をつけていたため、薄ぼんやりとしていたようだ。
「お疲れ様です。すみませんでした、ほんと」
慌てて立ち上がった染谷が、申し訳なさそうに顔を伏せる。
「いえいえ、大丈夫ですよ。わざと間違えたわけじゃないことくらいみんな分かっていますから。それを言うために残っていたんですか?」
「まぁ、はい」
「律儀ですねぇ」
くすくすと笑いながら、真木は自身のデスクにカバンを置いた。
「早く帰ってくださいね、もう外は暗いですから」
「……あんたは」
「僕はちょっとだけ作業をしてから帰ります」
真木がパソコンの電源をつけても、染谷に動く様子はない。
「バレー、もうやらないんですか」
突然言われた言葉に、真木は思わず顔を上げる。
「いや、なんかほかの人が来て、あんたは来なくなったんで」
「ああ、そのことですか。それはなんというか……染谷くんが嫌かなぁと」
「……俺が?」
何を言い出したんだと言わんばかりの表情に、真木は苦笑を漏らした。
「……同性が好きな僕が、染谷くんにその、手を出してしまったので……」
「気にしてないって言いましたよね」
「言ってくれましたけど、それは僕の前ではそう言うしかないからかもしれませんし……」
「別に今更あんたに取り繕うとかしません。気にしてないんで、普通にしてください」
「……だけど、今回の発注ミス、僕のせいじゃないですか?」
染谷は一瞬、ぴくりと眉を揺らした。真木は目ざとく気付いたが、何も言わない。
「すみません、気を散らせてしまって。本当は異動させてあげられたら良いんですが、染谷くんはちょっと特別なので、すぐには異動させてあげられなくて」
真木が言葉を不自然に止めたのは、デスクの前に染谷が立ったからである。デスクに影が落ちて気付いた真木は、ふっと顔を上げた。
「あんたってなんか、卑屈ですね」
言葉と同時、染谷は真木の襟ぐりをぐっと力強く掴み上げると、逞しい腕で勢いよく引き寄せる。染谷よりも細い真木に抗えるはずもない。
引き寄せられたかと思えば、真木はそのままごちん! と顔をぶつけた。
痛い、と思う間もなく。ぶつかったのが、唇同士であるとすぐに理解する。
「えっ……」
「はー、だせ、ぶつかった」
至近距離で悔しそうに呟くと、染谷はまるでやり直すかのように、今度は優しく啄むようなキスをした。
「はい、これで俺からもやったからおあいこですね。もう気にしないでください」
染谷がパッと手を離した。そっぽを向いてしまったため表情は分からないが、後ろから見ても耳は赤い。
ぽかんとしていた真木は、数秒遅れてようやく、自身が何をされたのかを理解した。
「え! あ、いや、なんで、えっ……」
「だから、変に避けないでくださいよ。言い訳じゃないですけど、ここ最近そればっか気になってるんで」
「……な、なんで染谷くんがそんなこと……別に僕がどうしてたって……」
「そういうことなんで、じゃあ先帰ります」
「へ、あ、待っ……」
真木が何かを言うより早く、染谷は真木のことを一瞥もすることなく逃げるようにオフィスから出て行った。
残された真木は、もうそこにない染谷の背中にいまだに目を向ける。
「……どうしてこんな、こと……」
へなへなと椅子に座ると、真木は深くため息を吐いた。
「ダメだなぁ……染谷くんのまっすぐなところ、ずっと変わらないや」
きみには幸せになってほしいんだよと、誰に聞かせるでもないその言葉は、真っ暗なオフィスに消えた。
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