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第10話 痛み

 離れに戻った俺は、ベッドの傍の猫脚チェストの上に湯を入れた洗面器を置いた。タオルを湯に浸して固く絞ると、それを秀紀に渡した。 「顔を拭け」  秀紀はベッドの上で正座をすると、黙って顔を拭いた。自分も気になっていたのか、口の周りや鼻の下はゴシゴシと擦っていた。  その時、俺は秀紀の両方の腕、手首から肘にかけて、既に瘢痕化した小さな丸い痕がいくつも付いているのを見た。直ぐにタバコの火による火傷痕だとわかった。 「おい。その腕、火傷の痕だろ」  秀紀は、ビクッとして拭いていたタオルで腕を隠した。 「どうしたんだ、それ」  俺は、それを見た瞬間に虐待の跡だとわかった。それでも訊いた。虐待ではないと、否定して欲しかったのかもしれない。 「おい。訊いてるんだ」  秀紀は、タオルを洗面器の縁に掛けるとベッドに腰掛けた。 「…僕が、小学生の低学年の時、お母さんが連れて来た男の人に、タバコを押し付けられた痕です」  秀紀は無表情だった。ただありのままの事実を言っただけで、何の感情もみられなかった。 「お前…そんなにも付けられて、誰も助けてくれなかったのか?…母親とか学校の先生とか」 「…はい、誰も…助けてくれるような、そんな人はいませんでした。それに、言ったことがバレるともっと酷いことをされると思って言えなかったんです」  小学生の低学年といえば十歳そこそこだ。その火傷の数からして、何年も虐待をされ続けたのに違いない。そんな年齢でもう地獄をみてきた、と言うのか。  俺は、はっきりとわかった。秀紀が父の相手をすると聞いた時に、秀紀だけは何故か気に掛かり、火傷の痕を見ても、虐待だと思いたくなかった理由が。それは、自分と比べていたからだった。  父や祖父のおかげで、ただ久郷一族の子として生まれだけで、物心がつく前から、俺は何の不自由もなく贅沢な暮らしをしていた。それが特別なこととも思わなかった。  生きていく為には、どんなことも受け入れなくてはならない。たとえそれが、暴力による虐待や性処理の道具であったとしても、受け入れる選択肢しかないリアルな現実社会を知った。そのことを突きつけられ、そして、それを認めたくなくて僅かながらの抵抗を試みただけのことだった。  俺はいたたまれなかった。そして俺は無力だ。だが、目の前の秀紀の苦痛を取り除いてやることは、今の俺でもできる。 「秀紀。ベッドの上で四つん這いになって」  秀紀は目を見開いて、引き攣った顔をした。 「お前は、バカか。尻の傷の具合をみるだけだ。何もしない」  秀紀は黙って頷くと、ベッドの上で正座をして膝の前で手をついた。俺は秀紀の腰を持ち上げ、尻を押し開くと緩く絞ったタオルでそっと周辺を拭いた。何箇所か裂けたような小さな傷があったが、血は既に止まっている。薄く軟膏を塗った。 「今は、痛くないか?」 「はい。大丈夫です」 「じゃあ、ベッドから下りて」  チェストから新しいマットレスカバーを出すと、血が付いたカバーを外して交換した。俺は洗面器と一緒に丸めたカバーを持った。 「あの…ありがとうございました」  俺は、ああ、とだけ言って、離れを出た。  洗面室に行くと、夕食の時に母と家政婦が話していたのを思い出した。父は明日から一週間、木村さんを帯同させて出張に行くらしかった。それで、父は俺に秀紀の様子を見るよう言ったんだと理解した。  俺は、秀紀にここでの生活を少しでも安楽に続けさせてやるには、どうすればいいか考えた。  そして、あることを思い付いた。

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