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第14話 再会

 海外支社での勤務は五年が経過し、俺は帰国した。  帰国したからといって、またあの屋敷に住むつもりはなかった。木村さんにお願いをして、新居を探してもらっていた。街中ではなく緑を感じられる郊外の高台を希望した。五年住んでいた家も高台にある眺めのいい場所だった。  木村さんは、直ぐ様希望通りの物件を選んでくれた。グループ会社の久郷不動産が管理している別荘使いもできる一軒家だ。管理区画内の物件には定住者も多いらしい。送ってもらった写真を見て、俺は即決した。そして今日初めて、俺の城に会いに来た。が、まさか匂いのことまで考えが及ばなかった。俺は、溜め息を吐いた。    湿った風が運んでくる、栗の花の匂い。  疾うに忘れていた記憶が甦る。あの離れで父が吐精した後の匂い。そして秀紀の怯えた顔。  全てあの離れに置いてきたはずだったのに。    新居となる家のガレージに車を停めてドアをロックした時、誰かに呼ばれた。聞き覚えのある声だ。 「昭彦さん」  声のする方を向くと、そこに笑み顔の秀紀が立っていた。 「秀紀じゃないか」 「はい。昭彦さん、ご無沙汰しております」  ベージュの麻のジャケットにネイビーのチノパン姿の秀紀は、すっかり社会人の顔をしていた。 「秀紀、なんか大人の男になったな」 「そうですか?昭彦さんにそう言われるとなんか照れますよ」    秀紀は笑顔で頭を掻いた。 「で、どうしたんだ?こんなところで」 「はい…実は、木村さんに教えてもらいました…今日、昭彦さんがここに来られるって」 「そうか。いやぁ会えて嬉しいよ」 「僕、ずっと気になってたんです…ドクター昭彦にちゃんとお礼を伝えていなかったことを」  懐かしい名前に、思わず、クッ、と鼻の奥で音がした。 「なんだよ、懐かしい名前で呼ばれたもんだな」 「昭彦さん、大学卒業と同時に海外支社に行かれたので、たまに木村さんに帰国の時期を訊いていたんです」  屋敷を出たらもう関係はないのだろうが、木村さんからは、父の相手が変わったとは聞いていない。   「それにしても、秀紀はすっかり変わったなぁ。どうしてるんだ?…父とはその今でもか?」 「いえ、昨年、大学の卒業を機に旦那様からお暇をいただき、お屋敷を出ました。今は久郷リゾートに就職させていただき、会社の近くのワンルームで一人暮らしをしています」  お暇をいただいて屋敷を出た、なんていつの時代の話しなんだか、俺は治療をしていた頃の従順な秀紀を思い出した。外見は変わっても中身は変わってないようだ。だから、父と四年も過ごすことができたのかもしれない。 「あの、今、僕がこうしていられるのは、ドクター昭彦のお陰なんです。本当にあの時は色々とお手ほどきいただき、ありがとうございました」  秀紀は、真剣な表情をすると九十度に近いくらいに頭を下げた。 「よしてくれ…ほら、頭を上げて」 「本当に感謝してます。昭彦さんを前にして言うのも何ですが…初めて旦那様のお相手をした日、僕は呆然として、心が折れそうでした…こんな痛みがずっと続くのならもう無理だと思っていました。とは言え、生活をさせてもらい、大学にもいかせてもらい、お屋敷を出ても路頭に迷うだけでしたし、それに、あの頃の僕は無知で、まさか広げられるなんて思ってもみませんでした」  俺は、あの時の秀紀の顔を思い出していた。 「昭彦さん、いやドクター昭彦は僕の救世主です」 「もう、大袈裟だな」 「旦那様が出張から帰られた日、僕の身体のことをとても心配して下さってたんです…で、正直にドクター昭彦の往診を受けて、もう大丈夫です、ってお伝えすると、旦那様はしばらくの間お腹を抱えて笑っておられました」  あの時の鮭おにぎりは、そのお礼というわけだ。  秀紀はとても優しい顔で、話しを続けた。

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