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第2話
「そういやさあ」
隣を歩いていた光井 が、ふと思いついたように言った。学食へ向かう長い渡り廊下の途中だった。
光井は、大学に入って初めての講義で隣の席になって以来、なんとなく行動をともにしている友人だ。拳一つ分高いところから見下ろしてくるのは気に食わないが、気さくで人あたりがよく、何より頭がいいからテスト前には重宝するので見下ろされるくらいは大目にみてやっている。
「例の生徒、その後どうなった」
光井の言葉に、三上は首を傾げる。
「例の生徒?」
「ほら、家庭教師やってるとこの、男子中学生。告白されたって、前に言ってただろ」
「ああ」
そうだった。
ナオに告白されてすぐの飲み会の席で、三上はうっかり光井に話してしまっていた。翌日、これってもしかしてアウティング的な? 個人情報か? と焦り、バレたらクビになるんじゃねえか、でも光井も酔っ払ってたし、覚えてないかも、と淡い期待を抱きながらそれとなく確認したら、光井はちゃんと覚えていた。それで口止めをして、それきり話題に出ることもなかったのだったが。
「テストの結果が良かったら、メシ奢ってやるとか言ってただろ。どうなった」
そんなことまでちゃんと覚えてるのか。やっぱ成績いいやつって、酔ってても記憶力がいいんだな。妙な事に感心しながら三上は、はぐらかそうとしていたのをあきらめ、その後の顛末を話してやった。
「どうもこうも。奢ってやったよ。それどころかこないだなんか、大学が見たいっつって案内させられた」
「え、連れてきてたのか? なんだよ、言えよ。見たかったな、男子中学生」
「普通のガキだぜ。無邪気なもんだよ」
「それもテストの結果のご褒美なのか」
「まあな。何が面白いんだか」
「それで、その後は」
訊いてくる光井はやけに楽しげだ。他人事だと思って。まあ、他人事というのはむやみに楽しいものでもある。
「その後なあ」
なんと言ったものか。三上は言いよどむ。
昼どきを少し外れているせいか、食堂へ向かう学生の姿は少ない。九月も半ばを過ぎたというのに、陽射しはまぶしく全開にした窓からはぬるい風が吹き渡ってくる。
別に、わざわざ光井に言わなくても良かった。でも、言わずにいるとそれもなんだか意味深みたいになる。それでまあ、ためらいながら三上は口を開いた。
「なんか、変なことになっちまってさ」
「変なこと?」
「また、賭けみたいなことになって」
「なって?」
「期末テストで学年十番以内になったら」
「なったら?」
「キスさせろって」
「キ……」
沈黙が落ちて、歩きながら顔を向けると光井が目を見開いて唖然としたまま三上を見つめていた。まあ、そうなるよな。無反応で視線をそらすと、上擦った声が返ってくる。
「そ、それでおまえ、どうした」
「どうしたもこうしたも。まあ、なんか流れで、引くに引けなくて」
「いいっつったのか。了承したのか」
「まあな」
あきれたような、感心したような息のつき方を、光井はした。
「すごいなあ、おまえ。平気なのか?」
「まあ別に、キスくらい」
「だって男相手だぞ」
「たいしたことねえだろ。口先くっつけるくらい」
すっげえなあ、と、光井はしきりに言った。
そんなにすごいだろうか。少々ひるみながら、三上は思う。キスくらい、誰だってしようと思えば、誰とだってできるんじゃないだろうか。しないだけで。
「でもおまえ、もし本当にそいつが学年で十番とってキスが成功したら、もっとすごい条件出してくるんじゃないのか」
「もっとすごい条件ってなんだよ」
「そりゃまあ、おまえ」
思わず顔を見合わせる。キスの先なんて、ひとつに決まっている。
三上は思わず息をのむ。
「いやねえだろ、まさか」
「中学生なんて、性の目覚めはとっくに過ぎてるぜ。気をつけろよ」
「何にだよ」
あらぬ想像を振り払うように、三上は昇降口の段差を飛び降りた。
「中学生なんて退屈でいつも面白いこと探してんだから、すぐに飽きんだろ」
ナオは、ごくごく普通の少年だ。
受験の年にあわてて家庭教師をつけただけあって、勉強に対してのやる気は薄く、問題集を広げて説明していても聞いているのかいないのか判然とせず、教える側としても手応えのない生徒だった。
それが、突然の愛の告白ののち、ご褒美を目前にぶらさげると怖いくらいに成績をあげてきた。生徒の成績が上がるのは三上の家庭教師としての評価も上がるわけだから、一石二鳥あるいは三鳥くらいではあった。
それに、馴染みの定食屋に連れてゆくのも大学を連れて歩くのも、年の離れた兄と姉がいる末っ子の三上としては、弟がいたらこんな感じかと思って悪くはなかった。
なかったのだったが。
光井の忠告を軽くいなしたものの、正直、キスなんて条件は想像もしていなかった。
もし、ナオが条件をクリアしたら、どうするのだろう。
キス、するのだろうか。
するのか? 本当に?
いや、約束したのだからしないわけにはいかない。それにまあ、条件がクリアできるとも限らないし。いやでもやっぱり、あの調子ならやりそうな気がする。
「おい、どうした」
呼ばれて、三上は立ち止まる。
「え、何が」
「食堂行くんじゃないのか?」
すっかり通り過ぎてしまっていた食堂の入り口の前に立つ光井に向かって、三上は無言で踵を返した。
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