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第4話

 熱心に問題を解くナオの真剣な横顔を、三上は少し離れたところから眺めていた。  小テストのときは隣で見ていられると気が散る、と言うので、その間三上はたいていナオのベッドの上に座ってそのへんにあるマンガ雑誌を読んでいる。読みながら、時々ナオの様子を盗み見る。  春に受け持ったときはてんでガキだったのに、この半年ですっかり大人びた。成長期なのかぐんぐん背が伸びて、そろそろ三上を追い越しそうな勢いだ。黙々と設問に挑むまなざしはまぎれもなく受験生のそれで、勉強嫌いでやる気がなくて、こんなガキの成績を上げるにはいったいどうアプローチしたものかと頭を悩ませたのが嘘のようだった。  そう、嘘のように、必死で勉強している。それもこれも。  三上は小さく息をつく。  自分と、キスをするためらしい。どこまで本気だか知らないが。  中三のときの三上は、まだ背が低く小柄で、まだ子どもだった。今のナオよりずっと。  少なくとも、これほど必死に勉強ができるほど、誰かとキスしたいと思ったことはなかったし、そんなふうに誰かを想ったりはしなかった。  そんなにしたいものだろうか。  キスなんて。  さほど大切なものだと、三上は思わない。ただまあ、好きこのんでしたいわけでもない。しなくていいならしたくない。  終わったばかりのテストを採点している間は入れ替わりにナオがベッドに腰かけている。今のところ順調にナオの学力は向上している。このまま行けば条件をクリアしてしまうのは必至だ。  まさかクリアするのか?  キス、することになるのか? 「先生ってさあ」  採点中は話しかけられると気が散るのだが、注意をしてあってもナオは普段どおり話しかけてくる。半分上の空で、三上は答える。 「……んー?」 「医者になんの?」 「まあ……国家試験受かったらな」 「どうして医者になろうと思ったの?」 「そりゃ、まあ……なりゆきで」 「なりゆきって何」  しかたなく、三上は手を止め赤いペンにキャップをはめた。 「親父が医者でさ、小っせえ病院やっててさ、そうなるとほら、子どもも医者になるのが当然っつうか、そういう空気になるじゃん。そんで兄貴も姉ちゃんも医者になっちまってさ、じゃあまあ、俺もって感じで」 「……もしかして、先生んちってけっこう、金持ち?」 「どうだろうな。よくわかんねえ。周りにはもっとすげえ金持ちいるから」 「なんでバイトなんかしてんの」 「そりゃまあ、おまえ、親の金ばっかあてにしてんのもなんだろ。自分で遊ぶ金くらい、自分で稼がねえと」  へえ、と、ナオは感心したように目をしばたたかせた。 「先生、すげえ親孝行じゃん」 「うるせえな。採点終わんねえから黙ってろ」  なんだよ、褒めたんだのに。ナオのぼやく声を聞きながら、三上はまたテストの解答に目を落とす。  本当は、親孝行でもなんでもない。三上が一人暮らしをしているのもバイトをしているのも、父親と仲違いをしているからだ。  比百合の妊娠騒ぎの一件で三上の名があがったことに父親が激昂し、嫌疑ははれたが関係は今もって改善されていない。母親の一存で学費と家賃の面倒はみてもらっているものの、生活費は自分で工面している。 「でも俺、将来の夢とか目標とか全然ないんだよな」  ため息まじりにナオが言う。答案に目を走らせながら、三上はナオの思いにひそかに共感する。自分はたまたま、わかりやすいルートが目の前にあっただけだ。 「中三で夢や目標があるやつなんてそうそういねえだろ」 「そうかな」 「焦んなくてもそのうち見つかるさ」  うん、とナオは少し嬉しそうにした。見なくても空気でわかる。 「さ、始めるぞ。平均八十九点。おまえやっぱ生物がだめだな」 「俺、昆虫とか爬虫類苦手なんだよ」 「そんなんじゃ女の子に嫌われるぞ」 「え?」  軽く言ったつもりが、ナオは表情を強ばらせた。 「先生も?」 「……何が」  ベッドから降りたナオが、膝立ちでにじりよってくる。 「先生も、嫌う?」  三上は、昆虫や爬虫類の得意でない男がいたってなんらおかしなことではないと思うし、もちろん嫌とは思わない。ただ、それをここでナオに告げるのはどうなのだろう。 「俺のことはいんだよ」  ナオの頭を押しのけて、三上はテキストをめくった。

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