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第6話

 十二月はあわただしかった。  急に辞めたバイトの代役でもう一人中学生の家庭教師を週に一回引き受けたうえ、自分の試験に向けての勉強も佳境を迎えていた。毎日毎日、頭がおかしくなるんじゃないかと思うほど勉強している。  まあそれは、あいつも同じか。  三上は、このところずっと隙あらば脳裏によぎってくるあの子犬のように無邪気な顔を思い出す。考えようとしなくても自然と浮かび上がってくる。きっとナオは、死にものぐるいで勉強に励んでいることだろう。何が何でも目的を達成してやろうと、躍起になっていることだろう。  そして十二月の三週目の金曜日、いつものようにナオの部屋に入ると、得意満面の顔が三上を出迎えた。 「……んだよその顔」 「じゃっじゃーん」  片手に持ったB6大の紙を、ナオは突き出すように掲げた。  順位表の紙だった。クラス平均と学年平均、クラス順位と学年順位が書かれている。  クラス順位で、2。学年順位で、8。  ナオが三上とのキス獲得のためにクリアすべき条件は、学年で十位以内に入ることだった。  勉強机のナオのイスの隣に、いつも三上の座るイスが用意されている。ナオから順位表を奪って腰を下ろすと、三上はもう一度まじまじと眺めた。どんなにしつこく目をこらしても、8という順位は間違いではないようだった。 「……マジ?」 「すごいよな、おれ」 「……いや、ほんとすごいわ。おまえ」  正直、ここまで成績が伸びるとは予想していなかった。家庭教師を請け負った当初の要求としては、受験を前にしてやる気の見えない息子の勉強意欲を盛り立てる、程度の内容だった。志望校にしても、当初の成績でも無理のない範囲ではあった。  それが今や、成績上位者である。たとえキスが目的だとしても、充分賞賛に値する。ナオ本人も自信になっているだろう。得意げに顎をそらせ、おれもそう思う、なんて言っている。 「これ、おばさんとかに見せたか?」 「まだ。先に先生に見せてあげようと思ってさ」 「……そりゃまた丁寧なことで」  三上は小さく息をつく。  もしかして、とは思っていたが、本当にやりやがるとはな。  これはもう、三上も観念するしかなかった。ここまでがんばったのだから、キスくらい。させてやらなければ男がすたる。 「……ま、しょうがないか」  三上のつぶやきに、ナオは間抜けな声を出した。 「え?」 「約束だもんな。いいぜ」  イスの上に立てた片膝を抱えるようにして、三上が向けた顔を、ナオはぽかんと見つめた。 「いいって、何」 「何って、おまえ、自分がした約束忘れてんの? げ、言わなきゃよかったかな」  三上が眉をしかめると、ナオはあわてて首をぶんぶん振った。 「忘れてない。忘れるわけないじゃん」 「じゃ、なんだよその反応」 「だって、ほんとにやらしてくれるとは思わなかった」  土壇場で、あの約束はナシだなんて三上が言うとでも思っていたのだろうか。それは心外で、三上は不服そうに、でも渋々といった口ぶりで言う。 「俺は一回口にしたことは守る」 「マジで?」 「しょうがねえだろ、おまえは条件クリアしたんだからよ。しかも、二番も上だ。文句のつけようがねえよ」  ふてくされたように三上がそっぽを向くと、にわかにナオの表情が固くなった。  本当に、していいんだ。とその顔が言っている。その顔を見て、あ、こいつ本当にする気だ、と三上も思う。  していいと言ったんだから、そりゃするだろう。それはそうなのだが、本当にするとなるとやはり落ち着かない。  そんな三上の様子など気にする余裕もなく、ナオがおずおずと、三上のほうへと身を乗り出してくる。その顔が、ゆっくりと近づいてくる。  こういう場合は目を閉じるのが自然なのだろうが、目を閉じて待つというのもなんだか癪にさわった。そう思ってナオを見上げたら、寄り目になりそうだったので結局、寸前で三上は瞼を下ろした。  触れた唇から最初に感じたのは、緊張だった。こいつまさか、初めてなのかな。まあまだ中三だもんな。  何も見えなければ、キスなんて誰としたって同じだ。  と思っていた。  でも違った。なにやら、妙な感じだ。  ナオとは、他のどの部分だって、積極的に触れたことはほとんどない。なのに口先だけが意思を持って触れ合っている。  順番が違う。だから妙なんだろうと思う。  ふつうは先に、手とか肩とか、そういうところから相手の体温や感触に慣れてゆくものだ。  そういえばあのときも、順番が違った。  比百合と初めて触れたのも、唇だった。  初めて唇が触れたのち、比百合とはあの後、セッ……  三上は思考を止めて、そっと体を引いた。 「いつまでやってんだよ」  のぼせあがった顔のナオが、間近で熱い息をもらす。 「……サイコー」  三上は気づかれないようにそっと息をのむ。  比百合のときがどうだったとか、それがどうしたというのだ。  夢見心地な顔でにやにやが止まらないでいるナオに、ちらりと視線を向ける。  いや、こいつとセックスとかありえねえし。  だいたいどっちが上なんだよ。  俺か? こいつか?   どっちを想像しても現実味がなく、三上は考えるのをやめた。

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