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第7話

「おまえさ、あれどうなった?」 「あれ?」 「キスだよ。男子中学生」 「ああ」  大学の構内で顔を合わせるなり、光井が訊いてきた。年が明けてそうそう、新年の挨拶より先にする話題だろうか。  空はよく晴れていて、吐く息は白いが陽射しは暖かかった。中庭は人もまばらで、正月の余韻を残したのどかな光景が広がっている。 「まあ、したけど」  簡潔に、三上は答えた。今さら、嘘をついたりごまかしたりするのも面倒だ。 「マジで? すごいな。どうだった?」 「どうって何だよ。誰としたって同じだろ、キスなんか」 「同じってことないだろ。じゃおまえ、誰とでもできるわけ?」 「誰とでも、っつーか」  三上は頭の中でくるりと思考をめぐらせる。誰とでもはやっぱ、ムリだな。 「まあ、生理的にだめなやつはいるだろうけどさ」 「じゃ、俺とかは?」  歩きながら、隣で光井は自分の顔を指さしている。いったい何の質問だ、と思いながら、三上は一応考えてみた。光井はまあ、生理的に嫌なやつではない。 「……アリかな」 「ああよかった。生理的にだめじゃなくて。一応嬉しいもんだな、そういうの」 「なんだそれ」 「それでおまえ、律ちゃんはどうしてんだよ」 「どうしてるって、何が」  光井は、律と面識がある。律を知り合いに紹介されたとき、光井もその場にいたのである。 「おまえが男子中学生とキスしてること、律ちゃんは知ってんのか?」 「知ってるわけねえだろ」 「なんだ、それじゃ浮気だな」 「この事態の一部始終を聞いといてどうして浮気って判断になるんだよ」 「浮気だろ。彼女がいて他のやつとチューしてんだから」 「そうなんのかな」 「おまえ、そういうとこ、良くないぞ。女の子を傷つけるぞ」 「傷、なあ。つけたんだろうな」  三上は疲れたように大きく息をついた。その顔を覗きこみ、光井は好奇心をむき出しにする。 「なんだよ、何があった」 「クリスマスだよ」 「ああ、クリスマスな。試験当日な。何、結局日にち、ずらせなかったのか」 「モノクロのフランス映画だぜ。寝るだろ、そりゃ」 「怒ったか」 「勘弁してほしいよな、マジで」  三上はもう一度、今度は大仰にため息をついて見せた。光井がくつくつ笑っている。  毎年のことながら、クリスマスはだいたい試験日だった。前日までほとんど寝ずに勉強しているのだから、せめて翌日にしてほしいと頼んだが拒まれた。それもそうだろうと思う。本当ならイブが良かったんだろうし、譲歩して二十五日なのにその翌日ではもはやクリスマスではない。ボクシングディだ。  しかしそれにしても、今回は律にしてはめずらしく、無理を言った。好きな映画を一緒に見たい、と言って、渋る三上を引きずるようにして映画館へ連れていったのだ。それはフランス映画のリバイバルで、タイトルだけは律から何度も聞かされていたが、三上は見るのは初めてだった。  フランスの古い白黒映画、と聞くだけでだいたい予想できたとおり、セリフは少なく登場人物たちの表情や動きも意味があるのかないのかよくわからず、のっぺりと進む展開に三上はすぐに眠気に襲われた。派手なアクションものならまだしも、静かな音楽と物憂い映像が延々と続かれるとどうしてもこらえられない。なにしろ昨晩はほとんど寝ていないのだ。館内はもちろん暗く、聞きなれないフランス語は三上を眠りにいざなうかのようで、律に揺り起こされて目にしたスクリーンにはすでにエンドロールが流れていた。しょうがないだろう、と三上は思った。  律は無言で席を立ち、外へ出てから怒りをあらわにした。 「この映画、好きだってあたし、言ったじゃない。クリスマスにリバイバルがあるからって、ずっと前から言ってたのに。三上くんと一緒に見るの、すごく楽しみにしてたのに」 「だから言ったじゃん、俺、たぶん寝るって。昨日全然寝てないんだって。しょうがないじゃん」 「しょうがなくない」  律の、強い声を三上は初めて聞いた。そういえば、ケンカらしいケンカはしたことがなかった。癇癪を起しているような律を見たのも初めてだ。 「どうでもいいからよ、三上くんは」 「何が」 「クリスマスも、映画も、あたしのことも」 「……そんなわけないじゃん」 「本当は好きじゃないんでしょ、あたしのこと。好きならもっと、ちゃんとするもの。あたしのこと考えてくれて、寝たりなんかしないはずよ」  三上は気づかれないように息をつく。  律が、女みたいなことを言っている。いや、律はまぎれもなく女だ。そうではなく、三上が今までつき合った女みたいなことだ。  そうだよな、と三上は観念する。きっと誰だってそうなのだ。律も例外ではないということだ。 「三上くんがそういうの好きじゃないって知ってるから、ずっとがまんしてた。でも、クリスマスくらい、つき合ってくれてもいいじゃない。あたしだって、クリスマスに好きな人と好きな映画見たりしたかったんだよ。それくらい、いいじゃない」  そう言って、律は突然泣き出した。  律が泣くのを見るのも初めてで、三上は驚いた。こんなことで泣くとは思わなかった。それほど律にとっては重要なことだったのかと、また驚く。  申しわけない、と思うべきなのだ、とは思った。思ったけれども、本心を言えばめんどうくさかった。  こんなことで泣くなよ、と思った。  あたしのことが好きなら。  そんな言葉は飽きるほど聞いた。どうしてそうやっていつもみんな、好きをたてにして要求してくるのだろう。好きって何だ。  優しくねえなあ。俺。  泣いている女の子を前にして、ひどいことを考えている。  優しくない。そう自覚しながらも、三上は言葉が口をついて出るのを止められなかった。 「じゃあ、律は?」  泣き顔のまま、律が三上を見上げる。 「……え?」 「律は、俺のどこが好きなわけ? 試験勉強で徹夜明けで、律の好きな映画の途中で寝ちまうような俺の、いったいどこが好きなんだよ」  律の顔が、困惑にゆがむ。  辺りはすっかり暗くなっていて、映画館を出てすぐの角の並木の陰で、かすかに届く外灯のわずかな明かりでも律の白い頬が震えているのがわかる。 「理想があるんだろ。自分のために俺にこうあって欲しいっていう理想が。それって、俺である意味があるのかよ」  驚愕に見開かれた律の目から、涙が幾つもこぼれ落ちる。かわいそうだな、と少し思う。でも、思うだけだ。 「がまんしてたっつってたけど、がまんして一緒にいる必要がどこにあんだよ」  律は、何も答えなかった。答えずに、唇を引き結んだ。悲し気だった表情が、徐々に厳しいものへと変わってゆく。何か言いたげな目でしばらく三上を見つめていたが、ふいと顔をそらすと、そのまま振り返ることなく歩き去ってしまった。  追いかけるべきだったろうか、と思わないでもない。ただ、眠かった。早く帰って寝たい、と思っていた。 「それから?」  光井の問いに、三上は肩をすくめる。 「それから会ってない」 「マジで? 電話とかも?」 「連絡こねえし、俺もしてねえし」  呆れたように、光井は口元を歪めて笑った。 「まあ、おまえにしては長くもったほうじゃねえの。半年だっけ、もうちょっとだっけ」 「もう終わったみたいに言うなっつの」 「終わりだろ、それ」 「そうなんのかなあ」  なんにしろ、面倒だなと三上は思う。考えることすら面倒だ。

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