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第8話

 キスなんて、一回したらもう二回も三回も変わらないだろう。  そう思って了承したら、それから何度もキスすることになった。  難しい難題を突きつけても、ナオは易々と達成してくる。易々とではないのかもしれない。恐ろしく努力しているのかもしれない。だとしても、たいしたものだ。だからまあ、三上もキスくらい、してやってもいいかと思う。でも。  キスなんて、たいしたことじゃない。  そう思っていたのだったが、回数を重ねるごとにナオのキスが進化してゆくことは想定外だった。  最初はガチガチで軽く触れ合わせるのがようやくという感じだったのに、その次はしっかりと合わせてきた。あんまり密着するので、落ち着かなくなって三上のほうから顔を離した。  その次は、合わせた口先を動かしたり()むようにしてくるので、自然と唇が開いてしまった。これはちょっとまずい、と思った瞬間、ドアが開いてナオの母親が入ってきた。コーヒーを運んできてくれたのだった。  そのときのナオのあわてようを思い出すと、三上は今でも笑いがこみ上げる。勢いよく体を仰け反らせたせいでナオは、イスから転げ落ちたのだ。どうしたの、と不思議そうに問う母親に、平静を装いながら別になんて答えるナオを三上はそ知らぬ顔で見下ろした。  それにしても、と三上は思う。  ナオは本当に素直で単純で、優しいキスをする。  される側になって初めて、三上は気づいた。  性急でもなく強引でもない。ちゃんと相手の様子を見ているキスだ。  そんなキスを、三上はしてきただろうか。思い出そうとしたが、思い出せない。キスなんて、三上にとってはそんなものだった。  なんにせよ、ナオとキスするのはそんなに悪くなかった。男相手だからって別に、どうってことない。  そう、思っていたのだったが。  三学期の学年末のテスト結果が出た。  条件なんてもう、出すほどのこともなかった。ナオは全力でやっているし、結果も十分出ている。達成されたところでキスするくらいなら、三上は痛くもかゆくもない。  その日も三上は、テストの点数表と順位表を見てナオを労い、間違えた問題を重点的に再確認する算段をつけた。  その実、ナオとの賭けはこれが最後だった。学校でのテストはもうないし、模擬試験でも判定結果は示されない。後は本番の受験に臨むのみだ。  授業をする前にひとまず、最後のご褒美だった。隣に座るナオに向けて、三上は顔を上げた。気に入らないことに、この半年ほどの間にナオは驚くほど背が伸びた。今や、三上を見下ろすほどだ。気に食わないことではあるが、文句を言ってもしょうがない。 「ほらよ」  そう言って三上は目を閉じる。最初は気が進まなかったが、慣れてしまうと目を閉じて待つというのも面倒がなかった。  そっと触れ合い、密着し、やわやわと動き出す。意識が唇に集中する。  相変わらず、ナオの触れ方は優しい。その感触は、悪くなかった。悪くないというか、どちらかといえば、いい。素直に白状すると、結構気持ちいい。  ただキスがしたい。そういうナオの、単純な好意が気持ちいい。そして三上もただ単純に、ナオとキスをするのは気持ちよかった。  でも、それもこれで最後だ。  こんなキスをすることも、もうない。  そう思うと、少し。  いや、何が少しだ。別に残念だとか思わねえし。名残り惜しいとか全然、ねえし。  そんなことを思っていると、不意にナオの両手が三上の頬を包みこんだ。思いもよらなかった感触に驚きはしたが、最後だし、そう思って三上は、抗わずにいた。  最後、と思っていたのはきっと、ナオも同じだった。無防備に開いた三上の唇の隙間から、するりと温かく湿ったものが入ってきた。  ナオが、舌を入れてきたのだった。  思わず一瞬、顔が強張る。そんな反応をしてしまったことに三上は、動揺した。  生意気なことしやがって。  ここで強引に顔を離してしまうのは、怖気づいて逃げるみたいで嫌だった。  三上は侵入してきたナオの舌を、前歯で軽く挟んだ。それだけで、ナオの震える気配がする。ナオの首の後ろをつかんで深く唇を合わせると、ナオの舌を押し返して舌を差しこみ、絡めとりながら舌先でその表面をなぞってやった。  いわゆるディープなキスというやつは、三上だって何度もしたことはある。どの相手だって最初はためらい、慣れてくると積極的に応えてきた。でもそのどの相手とも、ナオは違っていた。仕掛けた側なのだからそれも、当然なのかもしれない。  戸惑っているくせに鷹揚で、三上の動きに素直に反応する。そこには、何の思惑も計算も感じない。  それは三上のほうだってそうだった。  行為につきまとう、関係だとか立場だとか、つき合うとかつき合わないとか、好きだとか好きじゃないとか、はては結婚だの将来だの、そういった煩わしいもののない、純粋な心地よさを感じていた。  ただただ、気持ちいい。  深く考えずに舌の表面で粘膜を絡ませ合ううち、その感覚が知らず内部に伝わり熱を持ち始めた。このまま続けたら、ちょっとやばいことになるかも。それに気づいて、三上はゆっくりと唇を離した。  どうやら初めての深いキスだった様子のナオがぼうっとしている間に、三上は乱れそうになった呼吸をなんとか落ち着かせる。  何、感じてんだよ。  こんなガキに。  でも、気持ちよかった。  面倒なことを考えずにその行為だけに没頭すると、ずいぶん気持ちのいいものなのだな、と思う。どうせするなら、そんなキスがいい。  気がつくと、ナオがなにやらしゅんとしていた。大げさにうなだれて、大仰なため息をついている。 「……あーあ、もっといっぱいテストがあったら良かったのにな」  三上はわざとらしく呆れて見せる。 「あのな。おまえテストのために勉強してんじゃねえだろ」 「テストのためじゃないよ。先生とキスするためだよ。勉強しなくってもキスできるんなら、勉強なんかしたくないよ」 「……ほんとおまえ、はっきりしたやつだな」 「バレてるもん隠したってしょうがないじゃん」  こういうナオのあっけらかんとした素直さを、三上は好ましく思っている。でも残念ながら、これが最後なのだ。 「まあな」  そう言いながら、なんというか、本当のところ三上も、妙な心持ちだった。今まで何人か家庭教師で生徒を受け持ってきたが、こんなことは初めてだった。  もう、会うこともなくなるのか。そんなことが頭をよぎる。  つまりはなんだか、離れがたいのだった。  何度もキスなんかしたせいだろうか。いや別に、キスしたいとかそういうわけじゃねえけど。そんなんじゃ全然、ねえけど。 「ほんと、なんでおれ、先生なんか好きになっちゃったんだろ」  しみじみとナオがそんなことを言うので、三上は少しムッとする。 「そんなの俺が知るかよ」  でも、なぜムッとするのか自分でもわからない。好きになられても困る、とずっと思っていたはずなのだったが。 「先生ってさ、誰とでもキスするの?」  唐突に訊かれて、言いよどむ。 「そりゃまあ、時と場合によるな」 「ふうん。まあ、おれとだってできるくらいだもんな」  そう言うナオの口調がどこか投げやりだったので、三上は少し焦った。 「おいおい、受験前に悲観的になってくれるなよな。これでおまえが落ちたらシャレになんないぜ」 「あのさ、仮にも受験生なんだから、おれ。このナイーブな時期に落ちるとか言わないでくれる」 「大丈夫だよ、今の成績なら」  そうなだめてやったが、ナオの表情は浮かないままだった。どうしたものか、と三上が考えをめぐらせていると、一転してうなだれていた顔を上げ、ナオは目を輝かせた。 「ねえ、先生。受かったらさ」  見覚えのある顔だった。これまでもその顔を、三上は何度も見た。面倒な、良からぬことを言い出すときの顔だ。 「……何」 「受かったら、どうする?」 「……どうするもこうするもねえよ。別にキスくらいならしてやるよ」  受験の結果が出るころにはもう、ナオの家との契約は終わっている。だから三上が褒美で何かをしなくてはならない義務など発生しないはずだったが、ついそう答えていた。  そもそも、受験まで面倒を見た生徒のことは、合否が出るまでは責任があると三上は思っている。だから契約が切れても合否の確認は必ずする。ナオのこともそのつもりだった。ただまあ、だから褒美はおまけだ。  なのに、ナオは引かない。 「でもさ、受験は今までのテストとは違うんだぜ。もっとすごいだろ。じゃ、褒美ももっとすごくないとだめじゃん」 「あのな、今のおまえの志望校にたいして、おまえの成績ならまず間違いないって言ってんだろ。そんなの、はなっから結果が決まってるのに賭けになるわけないじゃん。だいたい、もっとすごい褒美ってなんだよ」  そのとき唐突に、三上は光井の言葉を思い出した。  ――でもおまえ、もし本当にそいつが学年で十番とってキスが成功したら、もっとすごい条件出してくるんじゃないのか。  もっとすごい条件。  キスよりも、先の。  思わず三上は両手で肩を抱く。 「あ、俺ちょっと想像しちゃった。やべ。やばいってマジ」 「どんな想像したんだよ」 「いいから、おまえは受験がんばれ。受かったらさっきみたいなキスしてやるから」  そう言ってごまかしたけれど、ナオの目の輝きは変わらなかった。  正直なところ、ナオがもっとすごい条件、つまりキスのその先の、もうそれでしかない要求をしてきたらいったい、自分はどう答えるのだろう、と三上は、困惑していた。  それはダメだ。  とはっきり、言えるだろうか。  そんなことに迷う自分に動揺していた。  何考えてんだ、俺。 「だいたいおまえ、受験なんて自分のためなんだからさ、褒美って」  なんとかナオの気をそらそうとしゃべりだしたのを、遮られた。 「海、連れてってよ」 「……海?」 「そ。春休みにさ。寒いかな。ま、寒くてもいいよ、泳ぐんじゃないし」 「海、行ってどうすんの」 「別にどうもしないけど。去年の夏は海どころかどこにも遊びに行ってないんだぜ。冬休みだって、クリスマスもお正月も塾でさ。かわいそうじゃん、おれ。受験から解放されたら、ちょっと海でも見て気い抜きたいよ」  ナオの言い分はいたってまっとうだったが、ここへ来てそんなまっとうなことを言われるとは想像もしていなかった。 「……ま、いいけど。なんか普通だな」 「なんか期待してたの?」 「するかバカ」 「じゃ、約束ね。おれ、ほんとがんばるからさ。ちゃんと賭けになるように。マジ、がんばるよ」  熱心にそう言うナオに、三上はおう、と返すしかなかった。

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