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第15話

 申し訳ありません、とフロントのまだ若そうだけれども仕事のできそうな顔つきをした女性は、心底申し訳なさそうに言った。 「当ホテルは只今、改装中なのでございます。この時期はあまりお客様も多くありませんので、一週間ほどの予定で順次作業しておりまして、只今はツイン全室とシングルの半分がその途中で、今回思わぬ天候と土砂災害のために作業員の皆様が残りのシングルをお使いになることになりまして、残念ながら……」 「……え? ツインもシングルも、空きがないってことですか?」 「本当に申し訳ありませんが……」  部屋が、ない?  嘘だろ。マジか。  まさかの事態に三上は呆然とする。  じゃあ野宿? なわけないか。車中泊?  いやでも、この濡れた体で車で寝たりなんかしたら絶対に風邪をひく。 「あの、それじゃ、大浴場だけ入れたりできませんか。俺も連れもずぶぬれになってて」  無理を承知で頼もうとしたら、あ、とフロントの女性が大声を上げた。その声に自分でも驚いたようで、赤面しつつも前のめりで告げてきた。 「お部屋ございます!」 「本当ですか!」 「はい。ダブルでよろしければ」  満面の笑みにキラキラとした瞳で言われ、三上は一瞬息をのむ。  ……ダブル。ダブルベッド。  いや、さすがにダブルはまずいだろ。ツインでもちょっとやばいかなって思ってたのに。  とはいえ、ダブルのほうが折半したときに割安でもある。ダブルを二部屋借りるなんて贅沢はとてもできない。 「……それで、お願いします」  そう答えるしか選択肢がなかった。  別に、いいっちゃいいんだけど。  何か、自分ではどうしようもない方向へ有無を言わさず連れてかれている気がする。  つるりとしたロビーの床の上で三上は、再度大きく息をつく。それから、受け取ったルームキーを持ってナオの待つカフェレストランへ向かった。  ナオには悪いが、三上は先にシャワーを使わせてもらった。何しろ駐車場からホテルのエントランスまで走る間に滝のような雨に打たれたのだ。ズボンはまだマシだったが、雨除けにしたパーカーは役に立たず、下に着ていたロンTは肌に張りつくほど濡れて、冷めたコーヒーなんかではちっとも温まらなかった。  頭から熱いシャワーを浴びて、生き返った、と三上はひと息つく。バスタブに湯を張って浸かればもっと良いのだろうが、さすがにそんなヒマはない。ナオにも早く温まらせてやらねばならない。  湯気と水音に包まれていると、先刻の律の言葉が蘇ってくる。  ――他に好きな子がいるんだと思ってた。  もちろん、そんなこと寝耳に水だ。なぜ律がそんなふうに思ったのかわからない。ナオのことのみならず、家庭教師のバイトの話を律にしたことはほとんどない。三上と律がうまくいかなくなったことに、ナオは関係ない。  足元を、白い泡が流れてゆく。ついでに体を洗ったからだ。  さっき見た寄せては返す白波のように、うずまいて勢いよく排水口へ吸い込まれてゆく。  関係、ないのだろうか。  ナオは。  全然? まったく? 本当に?  わからない。全然まったくわからない。  少なくとも、男なのに臆せず告白してきたナオが、その想いだけで飛躍的に成績を上げる努力を重ねたナオがのことが、三上にとって少々特別な存在であったのは確かだ。好きか嫌いかで問われれば、もちろん好きだと答える。  だからといって。律の言う、好きな子、にあてはまるかどうかは定かでない。  よくわかんねえな。  ついでに髪も洗って、バスルームを出る。ナオはいなかった。売店でシャツを買ってくる、と三上のシャワー中に声をかけていったから、まだ戻っていないのだろう。  着替えがないからバスタオルを腰に巻いた格好で、備え付けの部屋着を探した。旅行なんて家族ともほとんどしたことがないから、こういうホテルの勝手はわからない。  クローゼットを開けると足元のカゴの中に折りたたまれて入っていた。ほっとして広げると、ガウンタイプだった。室内ならこれでもかまわないだろうが、廊下や館内を歩き回るのにはちょっと抵抗がある。この後夕飯を食べにレストランへも行かなくてはいけない。  どうしたものか、と逡巡していると、ドアをノックする音が聞こえてきた。 「ナオか?」 「あ、先生。おれ、キー忘れちゃった」  初歩的なミスである。ホテルのドアはオートロックだから、うっかり締め出されるのはよくあることだ。  しょうがねえなあ、とドアを開けてやると、ナオはホテルの名前の入ったビニールバッグを持って唖然とした顔をしていた。 「ここ、浴衣とかないのな。シャツ買ってきてくれたのか。悪いな」  中に入ってドアを閉めたナオは、三上に対して呆れた眼差しを向ける。 「先生」 「ん?」  そうして、大仰にため息をついた。 「ちょっと無防備だよ、そんなカッコで」 「え? だってしょうがないじゃん。着るものないしさ」 「あのさ。すっげ落ち着かないんだけど」 「なんで」 「おれ、あんたのこと好きなんだよ」  目の前で、まっすぐに視線を向けてはっきりと言われ、そんなことはもちろんとっくに承知の上ではあったけれど、改めて告げられると三上は動揺した。でもそれを覚られないよう、両手で上半身を隠すようにしてふざけてみせる。 「え、おまえ、マジ俺になんかしたいわけ?」 「当たり前じゃん。好きなんだから」 「……素朴な疑問なんだけど、それってさ、抱くほう、抱かれるほう」 「もち、抱くほう」  ふうん、と、平静を装ってみたけれど、訊いたことをすでに後悔していた。やっぱり、そうなのか。 「あと、パンツ」  そう言って三上にビニールバッグを放ってよこすと、ナオはバスルームへと入っていった。  シャツとパンツを二人分。まだ若いのに、なかなか気のつくやつだと思う。それらとなんとか無事だったズボンを身に着けて、三上はベッドに腰を下ろした。借りられた部屋は角部屋で、二方向に続きの大きな窓がある。雨は先刻よりも大人しくなり、風もすっかり落ち着いている。  ダブルベッドは、窓に沿うように角へあてて配置されていた。室内は手狭でソファなんて優雅なものはないので、必然、ここにナオと二人で眠ることになる。  ――まあ、せいぜい気をつけろよ。  そう言った光井の言葉が蘇る。  抱きたい、と断言した、自分のことを好きなやつと同じベッドで寝るなんて、身の危険が迫っているとしか言えない。  でも、と三上は思う。同じベッドで一晩寝たって、ナオはきっと何もしはしないだろう。ナオは、そういうやつだ。三上の嫌がることを、絶対しない。だからどちらかといえば、しんどいのはナオのほうだ。一晩中ガマンし続けなければいけないかもしれない。何を、とは言わないが。  窓の向こうで、暗くなり始めた海面に立つ白波が、驟雨の余韻を残してどこまでも続いている。

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