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第17話

 ロビーを通りがかったら、ガラスの向こうを覗き見たナオが、星が出てる! と声をあげた。  請われるまま外へ出て、建物を回りこんだところの浜辺に沿って続く遊歩道を歩く。  海はすっかり凪いで、先ほどまでの荒々しさが嘘のようだった。  会話の中で、ナオは高校生活に対するちょっとした不安をこぼした。それはそうだろうと三上は思う。そもそもナオは、そんな偏差値の高い高校へ進学するつもりはなかったのだ。この一年、必死でしたような勉強を、この先もずっと続けなくてはいけない。それを予見して今から不安になれるのは、上等とも言うものだ。 「大丈夫だろ、おまえなら」  するりと、口からついて出た。 「俺が保証してやる」  そう。ナオなら大丈夫だ。あんなにがんばったのだから、この先もきっとがんばれる。  新しい学校生活にもすぐに慣れるだろうし、友人もたくさんできるだろう。そして、同年代の可愛い女子と出会って、恋をするのだ。ほんのいっとき熱に浮かされたような三上への想いなど、すぐに忘れる。  強く海風が吹き抜けて、少しサイズの大きかった三上のシャツがはためいた。夜はまだ少し肌寒い。ナオを促して、部屋へ戻る。  なんだか少し、飲みたい気分だった。三上は備えつけの冷蔵庫から缶ビールを取り出し、思い立ってもう一本、抜き出した。ナオに渡してやると、目を丸くして見返してくる。 「いいの?」 「卒業アンド進学祝い。そういや言ってなかったと思ってさ。ナオくん、卒業、そして合格おめでとう。あ、親には言うんじゃねえぞ」  プルトップを上げて、缶を打ち合わせる。  ありがと、と言って缶に口をつけたナオは、すぐに難しい顔になった。飲み染めないビールはお気に召さなかったようである。それでも、難しい顔のまま再度トライしている。それを横目に、三上は缶ビールをあおった。 「おまえさ」 「ん?」 「ほんと、何で俺なんか好きになったんだろうな」  ベッドに腰かけながら、三上はふとそんなことを言った。冷たいビールが咽を潤して、口が滑らかになっている。 「……今さらそんなこと言う?」 「俺、よくわかんねんだよな。好きとかそういうの。今までつき合った女とかもさ、初めは好きとか言って近寄ってくるのに、そんな人とは思わなかったとか、冷たいとかさ。いったい俺のどこが好きだったんだっつーの。人のことよく知りもしないで、よく言えるよな、とか思っててさ」 「……おれ、先生のことよく知ってるよ」 「うん。おまえ、さっきいろいろ言ってたじゃん。俺の性格のことさ。なのにまだ、好きとか言うだろ? だからよけいわかんねんだよ。普通、好きにならねえだろ」  ナオは驚いたように声を高めた。 「どうしてそんなこと言うんだよ。今までつき合った人は、先生のことよく知らなかっただけだよ。知る前に離れてったんだよ。知ったら、絶対もっと好きになるって」 「ンなことねえだろ」 「なんだよ、けっこうモテるとか言ってたわりに、全然自信ないんだな。じゃ、好きになったおれはどうなるわけ。見る目なかったってこと?」 「そ。だから俺なんかやめとけって」  自嘲気味に三上は言ったのだったが、ナオの耳にはまったく届いていない。 「先生は自分が見えてなさすぎだって。主観と客観は違うんだぜ。おれは先生のいいところも悪いとこも知ってる。先生は、自分のいいとこ知らないんじゃないの? 悪いとこばっか見て、結論出してるんじゃないか。偏った論証は解答として不適切。だろ?」 「……受験生」 「結局なんと言われようとさ、好きになるのに理由なんてないだろ。頭で考えて好きになるんじゃないんだから。気がついたら好きだったんだから、しょうがない。今さらやめとけって言われてもなあ」 「ま、いいけど」  三上は空き缶をライティングデスクに置くと、ベッドに仰向けに倒れこんだ。アルコールは血中を巡っているのに、頭は冴えるばかりだ。 「しかしよくもまあそんだけ好きだ好きだって言えるもんだよな」 「言わしてんだろ、先生が」  窓の外は黒々とした闇に覆われている。空にはあんなに星があるはずなのに。  部屋の中が明るいせいだ。 「な、ちょっと電気消してくれ」  横着をして、背中を滑らせ仰向けのまま窓ぎわまで移動した。 「おお、すげえな」 「ほんとだ。キレイだ」  電気を消したナオが隣に寝転んでくる。  夜空いっぱいに散らばった光の粒が、迫ってくるようにチカチカと瞬いている。照明を消すと静けさが増して、遠いはずの波音を近くに感じ、まるで海の底から海面を見上げているような心地になる。  このまま時間が止まっちまえばいいのにな。  そんなことを思ったのは初めてのことだ。 「あ、忘れてた」  そう言ってナオが急に振り向いた。 「ん?」 「キスだよ。させてくれるって言った。人目のないとこならいいって」 「ああ、そうだな」  ナオが起き上がり、三上の頬に手を添える。そしてゆっくり、顔を近づけてくる。  正真正銘、最後のキスだ。  いつものようにためらいなく唇が重ねられる。そっと触れて、しっかりと合わさる。幾度か食み、ゆるく開いた隙間から舌先が滑りこんでくる。誘われるように三上も舌を絡ませる。  前回とは違って性急ではなく、ゆっくりと、たゆたうように表面をたどってゆく。少しずつ上がってゆく体温とは反対に、胸の内は驚くほど静かだ。  こうして粘膜を触れ合わせるのは、ひどく気持ちがいい。しだいに頭の芯のあたりがぼうっとしてくる。純粋にただ味わうようなこんなキスは、ナオとしかしたことがない。  けれども、そう長くは続かないうちに、その唇は名残惜しそうに離れていった。  これで終わりなのか。  もう、これで。  見下ろしてくるナオの顔が、わずかに届く遊歩道の街灯の仄白い明かりに照らされている。 「……先生」 「ん?」  ナオの指が三上の襟元に伸び、シャツのボタンを外す気配がした。そのまま開いた隙間から忍びこみ、鎖骨をすっと撫でる。ゆっくりと顔を落としたナオが、くっきりと骨の形をあらわにした肌の上に口づける。三上はぼんやりとした思考でそれを受け止めた。  ナオを何をしようとしているのか、それくらいはわかる。ただ、それにうまく反応できないでいる。  ナオの指はさらに動き、三上のシャツのボタンをすべて外してしまった。夜気に触れた肌が少し心もとない。 「先生」 「ん?」 「……酔ってんの?」 「そんな弱くねえよ、俺」 「じゃ、どうして何も言わないの」  そう言うナオの声はどこか、不安気だった。自分でしかけたくせに、戸惑っているようでもある。  実際のところ、三上は自分でもいまいちよくわかっていなかった。どうしたいのか。  もちろんナオは、三上が少しでも抵抗すれば今すぐにでも身を引くだろう。やっぱそうだよね、と寂しげに笑うだろう。  じゃあ、と三上は思う。  じゃあ俺は、抵抗したいだろうか。 「おまえさ、マジで本気なの?」 「先生、それ、筋肉痛が痛いみたいになってるよ」 「いんだよ、試験じゃねえんだから」  ナオは本当に、この先へ進みたいんだろうか。  いや、この先へ本当に進んでも、いいんだろうか。 「先生?」 「……おまえさ、マジで俺を抱きてえの?」 「……うん、まあ」  確認事項だとでも言うように、ナオは当たり前の顔をしてうなずく。  ふうん、と三上は窓の外へ視線を移す。  いいとか、よくないとかではなくて。  三上はもう、ただどうしようもなく。 「え、何」  視線を戻すと、ナオは一瞬たじろいだ。その表情を見て、やっぱり思う。  これで終わりなんてのは。 「やっぱ、褒美やんねえとな」 「え?」 「合格したしな。いいよ。やらしてやる」  口にして、三上はナオに気づかれないよう唾を飲みこんだ。もう、後戻りはできない。  できないし、しない。 「……なんで」  すぐに飛びついてくると思ったナオは、意外にも呆然と三上を見返した。 「本当はそう言いたかったんだろ。最後の褒美に」 「それは、そうだけど」 「だったらいいじゃねえか。なんでも」  ためらっているのだろうか。  いざとなるとやはり、男どうしであることに怖気づいたのだろうか。 「本当にいいの?」 「別にいらねえんならやめるけど」 「やめない」  断固とした口ぶりで、ナオはきっぱりと言い切った。

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