3 / 12

第3話

「……それ、で、オレ、あ、私は、出来損ない、で……」  詰まりながらも声を絞る若い社員の横顔を佐藤は見上げる。目の下に刻まれた濃いクマから、睡眠も満足にとれていないことを知らされる。仕事に関してか、プライベートの悩みか、いずれにしてもいい状態ではない。  手にした湯飲みに口をつけながら佐藤は、彼の言葉に耳を傾ける。  公園での軽い朝食からディスクに戻り、雑務を再開していれば声をかけられた。同期であり出世頭名義の箱の中身が甘味だと知った佐藤は、持ってきてくれた彼を誘って二人お茶会を開催していた。資料室の一角にある机とパイプ椅子に陣取って、彼が伝書鳩したまんじゅうはさっそく開けお茶請けとして活躍している。  もちろん彼の上司には、佐藤から一報いれてある。おしゃべりの佐藤に人を寄越したのだ、たとえ人手が足りないとしても飯田に罪はなく同期の自業自得。さらにお茶会が終わったら飯田は退勤していいと許可を取っている。まあ、元からそのつもりだろう。  どこそこの茶が美味いと仕事にまったく関係のない会話をする佐藤に気を許したのか、飯田のとつとつと語られた内容を要約するとこうだ。  いくら改善傾向とされても就職氷河期の時代、数え切れないほどの会社の面接に赴く日々。社会から自分の存在意義を見失いかけながらも、やっと就職を果たした会社で新卒として就職してから約三ヶ月、さらに自分を見失っている。 「もう、どうしたら、いいのか……」 「そう思う、理由があったのかな?」  底の見えた湯飲みを置き、あえてゆっくりとした言葉で飯田に尋ねる。強く口を噤んだ飯田からは返答がない。考えをまとめながら、佐藤はうーん……と、ちいさく声を漏らす。 「僕はヒラに毛が生えたていどの立場で、飯田くんに対しても、誰に対しても強制力がないことを前提として聞いて欲しい」  眉を下げ引かれる顎を認めて、佐藤は努めてやわらかい声音で続ける。 「ココが会社として、社会の『すべて』ではないんだ。僕は……まぁ、色々あって、この会社にいる時間が長いだけで大きな意味はない。昔は長い期間勤め上げるのは美徳であるとはされていたけれど、今はうま味はないに等しい」  学校という空間では教える側は提供し、学生側は受け取るという図式になりやすい。大勢に対して、土台となる一定の知識量を授けるには、その方法が理にかなっているからだ。もちろん自主的に学習をする者も中にはいるだろうが、すべてではないはずだ。  だが、ひとたび社会に出た途端、劇的に変わる。自ら学び、教えを請わなければ『使えない者』として烙印(らくいん)を押される。元学生であった新社会人が戸惑うのは当然だろう。  そして、初心忘れるべからずとはよく言ったもので、業務に追われた指導側は忘れがちだ。普段はいかに効率よく仕事を回すかに重点を置く傾向となる。学校を出たばかりのほぼまっさらな知識の他人にイチから説明するよりも、解っている自らで片付けてしまえば手間も省けて短時間で終わる。日常業務としては悪くないのだが、指導の観点からすると後任は育たない。よって既存スタッフが仕事を抱え込んで、自らの首を絞める悪循環が生まれる。  会社に余力がなく『人を育てる』ことを(ないがし)ろにした結果、即戦力を()い人を潰す。 「僕には、飯田くんはとても焦っているように見えるよ」 「焦って、いる……?」 「うん」  新たな茶を求めて席を立てば、気を利かせて飯田も腰を上げるが制する。ちいさな子どもではないのだ、茶くらい自分で汲む。 「お、茶柱。めずらしいねぇ」  急須の中に浮かぶ小枝に、年甲斐もなくはしゃぐ。  ついでに減っていた彼の湯飲みにも茶を注いだら恐縮されてしまった。これもパワーハラスメントの一環である飲みニケーションに当たるのだろうかと、嫌な汗が背筋を伝う。気をつけなければ。 「それは、自分が仕事が、できないからで……」  いくぶんか強ばりはとけたが、それでも固い表情を見上げる。先ほどの答えであると、佐藤は遅れて気づく。 「んー……飯田くんは水泳得意かい?」  棚のファイルの青い背表紙を眺め、口元に手を当てながら飯田に問う。 「……人並みには、泳げます」  急に変わった内容に、戸惑いがちに引かれる顎。  不躾でないていどに改めて彼の身体つきを見ると、しっかりと筋肉がついていそうだ。初々しくはあるものの、スーツが綺麗にきまっている。羨ましいと若干たるんだ己の体型を(かえり)みる。 「今まで足のつくビニールプールしか経験のない水泳初心者を、ポンと大海原に放り出したら泳げると思うかい?」 「いいえ」 「だよねぇ。僕もそう思う」  なら何故そんな質問をしたのだと、彼の表情が物語っている。素直で結構だ。 「それと同じ事を、会社は求めてしまっているんだ」  先に泳いでいる先輩たちは、泳ぎはじめた者の心情を(おもんばか)るのを後回しにして、なぜ泳げないと怒ってしまいがちになる。  息継ぎを学んでないかもしれない、バタ足の仕方を知らないのかもしれない、もしかしたら水に顔をつけることが今までなかったかもしれない。そんな初歩的なところに気づかない、新人と満足にコミュニケーションできていないので気づけない。さらに普段からそれぞれに背負った業務という荷物で自身が溺れそうになっているので、そもそも他者の重さを肩代わりできる余裕がない。  初心者側としては目の前の水しか見えておらず、世界はココだけで対応できない自分が悪い劣っていると錯覚してしまう。 「泳ぎと同じで、仕事もすぐにできるわけじゃない。浅瀬で失敗と成功を繰り返しながら、範囲を少しずつ広げていくのがベストだと思うよ。個人的にはね」 「でも……」  言いよどむ飯田の次の言葉を、静かに待つ。 「求められていることが、できない……。先輩と同じように仕事が、できないんです!」  新入社員の悲痛な思いが、湯飲みに波紋を作る。  波が収まるのを待って、目を細めた佐藤はゆっくりと口を開く。 「僕は別の部門だから、詳しくはないけれど」  言い置いて続ける。 「飯田くんはしっかり進歩しているよ」 「そんなこと、知らないのに……!」  膝上に硬く握られた拳を眺めて、なるほどと思案する。  飯田の日常を知らないくせに調子のいいことを言いやがって、と受け取ったのかもしれない。彼の中の会社で仕事を行うというのは、佐藤の認識よりも高いハードルなのだろう。 「業務内容は、まぁ言ってしまえば時間をかけて慣れれば誰でもできるんだ。……あ、他の人に怒られそうだから、コレは『シーッ』ね」  口の前に人差し指を立てて冗談めかす。反応の薄い飯田を確認しながら、どうやら見事に滑ったらしいと佐藤は悟る。 「業務に関してはひとまず置いておいて」  箱を置くしぐさは古典的だろうか。 「きみの焦りは、ごく当たり前のことで、一定の人たちも経験することだよ」  白熱していく内にずれてきているので、内容を軌道修正する。今回の論点は業務内容に関してではない。短絡的な思考と、安易な堂々巡りの悪循環を断つ。 「なんで『今』のタイミングなのだろう?」 「ずっと、ずっと、思っています」  こま結びでこんがらがった糸をひとつずつ解きほぐすイメージを持ちながら、佐藤は胸元からペンを取り出す。 「これが飯田くん、こっちが先輩」  手近な裏紙に直線を縦に一本、そこから近くの棒人間に飯田と記し、さらにその先に一人を描く。 「入職直後に悩んでも問題なかったはずだよ。だって、きみより先陣を切っている人なんて山のようにいるもの。それが『今』ってことは、先輩と自分の立ち位置の違いが解ったってことじゃないのかな」  首を傾げる飯田はピンと来ていないようだ。 「仮に、ココが出発地点としたらね」  直線を示して、飯田と先輩の棒人間たちの間を、青に色を変えた矢印でつなぐ。  佐藤には、彼はキラキラと眩しく映る。就職から三ヶ月。  今までは初めて尽くしの仕事を覚え(こな)し、がむしゃらに走ってきたであろう。そのペースが乱れるのが、この時期。張り詰めていた緊張の持続が難しくなり、右も左も解らなかった方向感覚が少し解ったころ。 「さっきの水泳初心者の話じゃないけれど。きみなりに泳ぎを覚えてきたけれど、先に泳いでいる先輩たちとの距離が離れすぎていることに気づいた。そして――」  ひとくち茶を含んで潤す。 「そして、こっちの方が大切なのだけれど。振り返ったら、自分が思っていたほど泳ぎはじめた位置から進んでいなくて驚いたのかなぁって」  飯田が静かに目を見開く。  赤線でつないだ出発地点と飯田棒人間を示す。  焦りの要因は二つある。彼の話を聞いて、佐藤が勝手に導き出しただけであるが。  先に彼が危惧していたように、仕事の進捗が思うようにいかないこと。  もうひとつは、自分の内面に関して。 「ちいさなことかもしれないけれど、それは大切な進歩だよ」  多くが立ち止まる。 『これでいいのか?』――と。  その問いかけは大切なものだ。 「知っているかい? 泳ぎの知識や同じ視点がないと、人との差には気づけない。先輩の泳いだ距離を眺めて『あのくらいなら自分もできる』と誤認してしまうこともある。自分は陸地を歩く経験しかないのに。もしかしたら先輩はすごく専門的な深海に潜っていて、息継ぎに水面に顔を出したところに偶然遭遇しただけかもしれない」  知識がないと疑問すら浮かばない。スタートラインに立っていないことにすら、気づけない。だから相手に簡単に文句も言えてしまう。  ただ、その『気づき』に気づかない振りをする者もいる。それは自己防衛のひとつなので、どれが悪くて良いのか明確な答えはない。  突き進むばかりがすべてではない、というだけ。 「泳ぐのが遅かったとしても、それがイコール仕事できないって訳じゃないよ。目に見える仕事の進捗状況と、目に見えない心構えとは違ってくる。そもそも同列に比べるとことではないしね」  先のように溺れかけている者に対して、手を差し伸べられる者が現在の会社ではほとんどいない。余力がないため、仮に指導者と銘打っていても一緒に溺れてしまう可能性もある。  その中で白羽の矢が立ったのは、出世街頭を早々に蹴って浅瀬で足を浸けながら、のほほんと茶をしばいていた佐藤だった。以前かじっていた人材育成も少なからず役立っているのだろう。  相談とは。  上司のまんじゅうが切っ掛けとはいえ、伝えるために言葉にすることであり、頭を整理することに繋がる。自分は補助をするだけ。  それぞれの答えは人格や環境などを経て己の内にあるものなので、周囲がどうこう言うものではない。そして体面的には他者の意見を求める格好であるが、結論的には無意識下で腹は決まっていて、自分以外の同意が欲しくアプローチを掛ける行為であるという認識が強い。多数決が方針を動かすこの国の独自であり、それもひとつの考え方だと佐藤は思っている。  突き放した考えかもしれないが、ちいさな子どもではないのだ。飯田にも思考する力はある。 「そもそも、入職して三ヶ月の飯田くんに同じ仕事をされちゃったら、先輩の面目も丸つぶれだ。少しくらい先輩風を吹かせてあげてよ」  茶目っ気たっぷりに目配せをする。 「『会社を辞めろ』とか『仕事ができなくて悪い』とか、そういうのではなくて。まぁ止める権利も僕にはないのだけれど、ただ――」  ひとくちに大海原だと言っても、深海も遠浅もそれこそ色々ある。まず海の深浅だなんて、人間が勝手に基準を作っただけで地球規模にしたら些末なことだろう。世界は個人が見渡しただけでは余りある。 「ただ、価値のない者だと自らを認識したままならば、とても勿体なくて残念なことだよ」  泣き言を漏らした時の表情から少し強さを灯した瞳を認めて、佐藤は微笑む。 「何年も学校に(かよ)って、試験を(とお)ってココにいるのだろう? その努力を、自分自身が認めないで誰が認めてくれるんだい?」  今までは目に見える点数で優劣を判断できたかもしれない。教師や両親が、周囲の人たちがほめてくれたかもしれない。しかし社会は驚くほど冷え冷えしていることもある。自分で暖める(すべ)を身につけなければ、心が凍えてしまう。  そして自分たちは魚ではないので、たとえ放られたとしても水から上がれるし、好みの泉に移ることも不可能ではないはずだ。あえて水に入らなくとも、陸にいるのも選択のひとつであろう。 「繰り返しになっちゃうけれど、ここだけが会社じゃないし、社会でもない。上司や同僚は今の彼らだけではない。採用としては会社が選んだかもしれないけれど、きみも会社を選んでいいんだよ。もちろん企業として、改善しなければいけないことは変えていくけれどね」  本当は。  荷物を背負って泳いでいる経験者も、目の前しか見えていない初心者にも、さらに上の者がコーチやライフガードとして全体像を見渡して采配できるのが理想だ。しかし現実はそうばかりではない。人員不足で、自らも水に浸かりながらライフガードを兼任している所も多々ある。  持ってきてくれたまんじゅうを二つに割る。中はつぶあんだ。 「飯田くんは、あんこは食べられるかい?」 「……あ、え、はい。こしあんが好き、です?」  変わった話題に、瞬きながらに返される素直さに頬を緩める。傾いてきた陽を視界の端に入れて、それそろ時間的にもちょうどいいと思案する。あまり帰宅が早すぎては、いくら上司から許可が出ているとしても飯田も気が引けるだろう。 「そっか。僕はどれも食べるけれど、どちらかと言えばつぶの方が好みなんだ。飯田くんのようにこしあんが好きでも、しろあんが好きな人も、みそあんが好きな人も、どんなあんこが好きでも、そもそもあんこが好きじゃなくてクリームだったり、食べないという選択をしてもいいんだよ」  佐藤の立ち位置は、あんこを好まない人間に無理強いをするのではなく、あんこが苦手であることを気づかせる切っ掛けを手伝うだけ。  口の中のまんじゅうを飲み込んだ佐藤は微笑んだ。 「上手に、自分を甘やかせるといいよ」

ともだちにシェアしよう!