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第6話

 ひと息ついて凝った身体を伸ばす。定時に会社を後にした佐藤はファミレスの一角を陣取っていた。  やはり仕事を抱え込んでおり、無茶な要求をされていた。さらに新婚家庭で妊婦の妻は切迫早産になっていたと聞いて、佐藤は真っ青になった。どうやら夫はピンと来ていないようだったが、場合によっては母子ともに生命の危機である。  もう少し早く気づいて声をかけていれば。後悔しても遅いが、引き継ぎもそこそこに半ば追い出すようにして家に向かわせた。 「ギリギリ……だいぶ危ないかぁ」  この仕事内容が終わるのか。努力はするが、難題をけしかけたクライアントはこれからの関りを一考する余地がある。いっそ会社を休み補佐としての業務をなげうってコチラに専念すればいいかと思案しかけて、上司が病欠していたことに気づく。さすがに補佐の自分も不在では支障が生じるだろう。他の部署にもヘルプを頼む可能性も考えなければならない。 「こんな所にいましたか」  どうしたものかとコーヒーに口をつけながら視線を上げれば、見知った顔を認めて目を丸くする。 「珍しい場所で会うねぇ横山くん」  この男ならば安さが売りのファミレスではなく、コース料理の出る店の方が似合っている。まあ大衆居酒屋で飲んだこともあるが。呆然とする佐藤を差し置いて、向かいの席に着いたスーツ姿は優雅にタッチパネルを操作する。 「変わっていませんね」 「……え?」  脈絡がなくうっかりと聞き返して、日中の反省が生かされておらずひっそりと後悔する。実はコレを見越して、あえて主語を抜いた解りにくい会話をしているのではないかと勘ぐってしまう。 「なぜ会社で仕事をしないのですか」  疑問の形を取ってはいるが、ただのポーズだ。 「……確信しているものにあえて答えても、ねぇ」  へらっと笑って流そうとするも、さすがにだまされてはくれないらしい。特別隠すことでもないので口を開く。 「僕がいつまでも職場に残っていたら、若い子たちが帰りにくいでしょ。下らないしきたりみたいなものは、どんどんなくせばいい」  昨今の企業もあり方を大きく変えなければならない。 「佐藤さんは――」 「おまたせしましたー!」  運ばれてきた料理に佐藤が視線を向けると同時、言いかけた横山は口をつぐむ。目の保養か、皿を置きながらちらりと彼を眺めていくウエイトレス。  そういえばと、佐藤は忘れていたポテトを口に放り込む。ソース類よりも薄塩が好きだ。だがしかし、この量をひとりで平らげられるかと言われれば否。 「横山くんも食べる? 食べかけだけど」  もしくは、こんなオヤジの食いかけはゴメンだと言われればそれまでであるが。 「あなたは……自覚がないのか、全く意識されていないのか」  組んだ腕を解き、ため息をつかれる。先ほどからの妙な空気は霧散して、佐藤もひっそりと詰めていた息を抜く。 「……ああ、まあ、物好きだと思っているよ。正直、どう接していいのか困ってはいる」  三年前のことをわざわざ蒸し返したくないが、拗らせた関係を清算するのは良策かもと思い直す。自分も彼も縛られていいことはない。ただ近隣テーブルとそれほど距離もない中、男同士の痴情のもつれを聞かされる周囲が気の毒なだけで。しかも片方は冴えない四十半ばの中年だ。 「なぜですか?」 「なぜってそれは……」  底の見えたカップを眺めながら思案する。  以前の、それこそ佐藤が横山の上司の依頼で接触を図ったあと、肩の荷が下りたのか表情がやわらかくなった。疎遠になりがちなのに、何度か自分の元に遊びにも来てくれたし、嬉しくて可愛がった覚えもある。過去お悩み相談した職員は、心の内を晒したためか大半が佐藤と距離を取りたがる傾向が強いので余計に。  あれから目の前の男も経験を積み、脂ののった将来有望な中堅に成熟した。今後成長の見込めない、頭打ちの老人は早々に引き際を知るべきか。もはや、以前とは立場が逆転しているのだから。 「俺は佐藤さんの近くに行きたいと――ここ、違っていますよ?」  どう返答したものか悩んでいれば、いつの間にか横山の手には佐藤が広げた書類が握られていた。 「……え?」  同じ会社だし、同じ部署になったし見られて困るものではないのだが。 「今、なんて言った?」  不穏な単語が耳を通り過ぎた。頼むから加齢からの幻聴だと言ってくれ。揚げ物で存在を示される胃の位置が、さらにシクシクと強調される。 「この書類には来年の上半期締め切りって記載してありますけど、広報部での発表がその頃のはずです」 「……マジか」  本社に居た横山が断言するのだから間違いはないだろう。  頭を抱えながら、はじき出した答えは。 「……今月、だな」 「ええ、あと半月ないです」  呻いた佐藤に追い打ちがかけられる。 「……」  二人の間に流れる、重い沈黙。  ただでさえ予定通りに進むのか疑問だったものが、さらに繰り上げられた。どう考えても手に負えない可能性が高い。 「…………マジか」  ファミレスの陽気なざわめきの中で、両手で顔を覆って嘆いている自分はさぞかし異色であろう。  一縷の望みを求めて資料をひっくり返して確認したところ、やはり横山が指摘した通りだった。時間がないことだけは動かしようのない事実で、焦る気持ちを抑えてスケジュールを組み直し、たたき台だけは作ってあった部下に感謝する。いよいよ無理難題をふっかけたクライアントに構っている余裕はなくなった。 「問題なのは時間のなさと、プロジェクトの規模の割に周知している人間が少ないことです。いくら本社で噛んでいても、俺の知っている範囲は限界があります」  淡々と語られる横山の言葉が、佐藤を冷静にする。 「まあ、僕もそれほど詳しくないしなあ」  それも上から放られたのを佐藤経由で部下に降ろしたのだ。そのため自分は以降の詳細を把握していない。 「佐藤さんは、明日こちらの人たちに連絡していただけますか。彼らは本社へ転勤や出向(しゅっこう)経験者です」  思案ながら書き渡された裏紙には、秘書課や庶務課や営業開発と一見関係なさそうな名が連なっている。大半は佐藤の元に上司名義のまんじゅうを届けに来た者たちで、思わぬところで活躍を知って素直に嬉しくなる。 「現地時間では日中のはずですから、足りない資料を取り寄せます」  電話のため席を外す広い背を眺めながら、彼がいてくれてよかったと思う。事態の大きな改善はないが、後退していないことは確かだ。それに戦力的なものだけでなく、ひとりではないという単純な心強さも加わる。 「甘えているなあ」  締め切りの衝撃の強さと、横山不在の気の緩みから手足を投げ出す。  これ以上はダメだと自戒しても、横山を目で追ってしまっている。もう自分でも言い逃れができないほど彼を頼りにしていて、くすぶり続けた想いは取り返しのつかないほど膨れている。だが互いが進むためには、佐藤の想いは不要なのだ。三年間横山からなんの音沙汰もなかったのが、なによりの証拠だ。 「……女々しいな」  馬鹿なことを考えているよりも締め切り。気を取り直した佐藤はパソコンに向かった。

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