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第7話

「……もぉ、なーんも、出ないぃ……」  力なく呻いて佐藤は机に突っ伏した。体重を受けてパイプ椅子が軋む。資料室に差し込む西日が目の毒。 「お疲れさまです」 「横山くんも、おつかれさまぁ」  交渉して伸ばした締め切りギリギリ、先ほど本社に提出したところだ。横山も自分もよくやったと思う。もちろん部下の構想があったからこそできたことだった。  引き継いだ仕事だけではなく、補佐の業務も、病欠している上司の業務もこなしたのだから三人分給料が欲しいくらいだ。まぁ普段のんびりしているので、これでトントンかもしれないと思い直す。  目の前に湯のみを置かれるが、受け取る元気もない。出がらしの頭はスッカラカンで精根尽き果て、起き上がる気力も出ない。寝る間も食事も惜しんで、ここ数日は時間感覚もあやふやだ。 「ありがとー……一週間くらい旅に出よー」 「可能なんですか?」  視線の先は器用に片眉を上げた男前の姿。  仕事とはいえ共に時間を過ごす内に、口調もだいぶ砕けた。もともと仲良くしていた認識があったので、打ち解けるのは早かった。ただ、逆に過去の清算話を持ち出しにくくなったのであるが。 「……ムリ。知っているよぅ」  まだ上司が戻ってきていない。よくて土日を挟んで三日だろう。なんと世知辛いのか。 「早く帰ってきてぇ、かちょぉー」  本心では体調は万全を期して欲しいが、こんな時ばかり都合よく泣き言を並べる。病院から退院して自宅療養に移ったので、もう少しの辛抱だと信じている。 「――佐藤さん」  横山の纏う空気の種類が変わった。 「んー?」  もしや、この脳ミソが疲れ果てているタイミングに込み入った話をするのではないだろうかと、嫌な予感が背筋を伝う。そして気づかないふりをして応じる自分は、なんて身勝手なのだろう。  目にかかる髪を長い指にすくわれる。 「この時期に、なぜ俺が異動になったのか知っていますか?」 「いや?」  はじめは訝しがったが、上の意向だろうと考えるのをやめた覚えがある。 「上層部の思惑もいろいろあるようですが、無理を言って異動させてもらったんです。あなたの近くに行きたくて」  示すのは、物理的にだけではないだろう。 「……僕は面白みのない人間だよ」  疲れた現実にも便乗し瞼を閉じて、話題から目をそらす。  会社に飼われる、一介のサラリーマン。(ひい)でた特技もなく、大きな社会の雑踏に紛れてしまう。将来有望株に構ってもらうほど、できた人間ではない。 「俺の中のあなたの価値は、あなたではなく俺が決めることです」  張りがないだろう頬を撫でる指は、いつぞやの居酒屋の記憶と重なる。  当時は海外に行ってしまったのに随分勝手だと、のどまで出かかって飲み込む。もちろん上司命令での転勤だが、横山本人からは知らされず、出国後に周囲から聞かされるだなんて(ないがし)ろにされているのと同じ。さらに三年間一度も連絡を寄越さないで。  好きだといわれ、抱かれもしたが、結果だけ見るとただの一夜限りの都合のいい相手。口ではなんだかんだ言われようと、引っかかるのはそこだ。  恨み事を頭に連ねつつ、これでは未練たらたら片想いの若者のようだと自戒する。  疲れて思考力を欠いている状態だと、なにを言い出すか自分でも予測できなくて困る。考えないようにしていることも、うっかりと口にしてしまいそう。 「秋生さんをずっと目標にして、隣に立ちたいと思って――」 「そんなに!」  なかば奪うようにして言葉を引ったくる。激情から身体を起こせば目を見張った横山を認め、ただの八つ当たりだと気づいてすぐに溜飲を下げる。 「……そんなに、立派な人間じゃ、ないんだよ、僕は……」  徐々にちいさくなる語尾に自信のなさが表れる。普段ならば、のらりくらりと躱す内容も上手くいかない。まるで癇癪持ちの子どものようだ。これ以上一緒にいるとさらに拗れそう。  やっと同僚として話すことができるようになったのに。だが、ちょうどよい区切りなのだろとも思いなおす。変に近い距離から、ただの上司と部下、一般的な同僚へと。  荒れた気持ちを落ち着かせるため、湯飲みを手にして水面を見つめる。 「……ひとつ、昔話をしようか」  見上げる先の、横山の表情は逆光でうかがえない。遮られないのをいいことに、佐藤は続ける。 「あるところに、一人の冴えない新入社員がおりました。今とは違って、当時は一対一で先輩が後輩を指導していました」  現在は教育係という窓口を決めてはいるが、基本的には部署全体で育てていく方針となっている。指導者に責任が集中し潰れてしまうのを防ぐためだ。仮に新人が単体でミスをした場合、同時に指導者も自身が注意を受けていると錯覚をする傾向がある。ただでさえ間違ったことを教えないよう日々気を張っている中で業務をこなし、さらに新人のミスまでフォローする精神的余裕は生まれない。  要は、泳ぎを覚えはじめの溺れかけている人間をおんぶに抱っこで、指導者は泳いでいる状態だ。一緒に沈む危険性は大いにある。それを防ぐために、現在は新人を背に乗せるのを数人で交代したり、複数で担いでいることが多い。 「先輩は『お前はこの仕事に向いていない』と入職した当初から厳しく言い続けて、物覚えの悪い新人に仕事を覚えさせようとしました。それに応えようと、冴えない新人も彼ながらに頑張りました」  まあ先輩の場合、半分以上は本気だったし『辞めろ』と怒鳴ったのも一度や二度ではない。当時指導者であった彼自身も必死だっただろうと、想像に難くない。新人からは頼れる先輩であっても、今の佐藤から見たら中堅にも満たないほどの経験年数だった。  決して彼を否定するつもりも肯定するつもりもないが、彼らの時代は先人の背を見て習うより慣れろの精神が根強かった。そのため厳しく当たったのだろうとも、今でこそ振り返ることができる。  新人であった佐藤は頑張って、頑張って、頑張ったつもりで、ふと、気づいたのだ。  自分を含めた、周りの新人と指導者を見回して。  ――『ソックリ』だった。 「すべてではないけれど、指導者と新人は似る傾向があるんだ」  右も左もわからない新人は指導者のフィルターを通して、会社という内部を見る。一番近くにいて、彼ら指導者のゴーサインがでなければ基本的に行動することができない。無意識ながらも先輩のクセを覚え、彼らのお眼鏡にかなうように立ち回る。仮に彼らの見解から外れる行動を取ると、学習していないと叱られるからだ。  そのため、結果的に指導者とソックリな新人ができあがる。  のちの環境や経験などによって外面は変わってくるが、最終的に根幹が似ることが多い。  ゾッ……と、した。  怒鳴ったり理不尽に当たり散らしたりするようになるのかと、愕然とした。 「彼のようになるのだけは、避けたかった。今も後輩に教えるときには気を遣うし、正直怖い。――ただ、臆病な人間なんだ」  目を眇め、苦々しく震えた口角を冷めた茶で隠す。  指導者が一人に決まっているのが悪いという訳ではない。ひっくり返せば、統一した指導を継続的にできる利点もある。方法それぞれに利点欠点があるため、どれを選択し複合するかだ。  以前、同期の守谷名義のまんじゅうを持ってきた飯田に、似たようなことを言った覚えがある。先輩は今の周囲だけではないと。あれは過去の自分に向けた言葉でもある。 「きみは、もう気づいているだろうけど」  言い置いて、一瞬ためらう。  横山が佐藤の元にまんじゅうを届けに来てから、年数は大分経過している。時効ととっていいか。今は他人の評価は変わらず受けつつ、自らの足で立っている。知る限り口は軽くないし、上層部の暗黙の了解を伝えても差し(つか)えない。むしろ今後、この男は自らの名で、甘味を持って行くのを仕向ける側になるだろう。 「上司名義で甘い物を持ってきた社員には、何かしら抱えているものがあるから注意を払って欲しいって依頼なのだけれど」  さして驚いた反応はないため、知っているらしいと()む。 「僕の所に甘い物が届いて彼らに対応するのも、切っ掛けは上の方針だ。――けど、元を正せばちっぽけな自己満足からだよ」  新人の頃の自分を見ているようで、煮詰まった後輩の話を聞くのも。当時の自分を反映させて、助けているような偽善行為。 「だから、きみに気に掛けてもらえるほど、できた人物ではないんだよ。さあ、もう帰ろう! 今日くらいは早く――」  声音を努めて明るいものに変えて提案すれば、強い力で腕を捕まれる。 「あなたにとっては自己満足だったとしても、それを分けてもらって救われたんです。俺も、他の社員も。だから皆、他の業務を後回しにしてでも、あなたの呼びかけに応えたのです」  そういえば。無理だろうと予測しながら取り次いでもらった連絡は、拍子抜けするほど迅速に対応してもらえた。 「あなたは自分で思っているよりも、人にやさしくて、影響もあるんです」  強い瞳が、佐藤を射抜く。 「いつまでも、たった一人の言葉に縛られないでください」  冷え切った指先を大きな手に包まれ、あたたかさを伝えられる。  ひとつ瞬きをして、横山を見つめる。  言わんとしていることを、ゆっくりと飲み込む。  なんとなく、自覚はしていた。  先輩と同じにならないよう、囚われていた。ずっと。  新人の頃に言われた『向いてない』という言葉の棘を胸の内にずっと抱えて、当てつけのように会社に長年居続けた。  そしていつしか、佐藤自身その思考に固執していた。  すでに彼はこの会社に在籍していないのに。 「もう当時のように新人ではないですし、今はむしろ部署を越えて認められています。事実、出向ではない本社社員もあなたの存在を認識しています。踏みにじらず摘み取らず、あなたが大切に育ててくれた社員の芽は、年数をかけて順調に樹になっています」  会社の体制から考えると、正しいかどうかはともかく自分の関わりは異色なのだろう。  じんわりと、横山の言葉が身体に広がっていく。  存在を認められただけでなく、意義を見いだされ、さらに明確な形にしてもらった。積み上げつつもあやふやだったこれまでに、一本の筋を入れられたようだった。 「……ありが、とぅ……」  不意の言葉に、視界が滲み鼻の奥が熱を持つ。  十も年下の同僚から、こんな言葉をもらえると思ってもみなかった。 「まあ、あなたは誰に対してもやさしいので、大変妬けますが」  一瞬遠い目をした横山がぼやく。  どうして、そこまで自分を見てくれているのだろう。  同僚以上として、憎からず想ってくれているのではないかと、勝手に舞い上がってしまう。だが同時に湧き上がるのは、深く読んでくれるのに、なぜこの三年間はまったく音沙汰なかったのかという疑問。  膨らんだ彼への思慕が、急速に萎えていく。横山は誰に対しても敏いのだと、己を戒める。  ――ああ、そうか。  パチン、と。  唐突に閃く。  拗ねていたのだ、自分は。  横山から見て、その他大勢と一緒にされて。  彼の特別になりたかった。  見上げた先では、精悍な顔の眉間に皺が寄る。 「佐藤さん?」 「……あ、いや、なんでも、ない」  喉に絡まって紡げない問いかけで、結果的に黙ってしまった。視線を逸らしつつ手を引っ込めようとするが、力が強くて抜け出せない。こんな中年の手を繋いでいてもいいことはないだろうに。 「あなたのことを、教えてください」 「なにもないよ。言っただろう? 僕は面白みのない人間だよ」  苦く笑って、煙に巻こうと足掻く。これ以上は曝かないで欲しい。 「隠さないでください。あなたはすぐに自己完結する」  そうなるように仕向けたのは誰だ。 「……っ、なら、なんであのときっ!」  責められるような声音にむきになってしまう。重なった疲労も相まって、普段よりも乱暴な物言いになったのは否めない。 「だって、出国も教えてくれなかった! 向こうに行って、連絡くれなかった!」  ひとつ、こぼれたら、もうダメだった。  溜まっていた、言葉があふれる。なじりたい訳ではないのに。  平時ならば社会人として相手に伝わるように筋道を立てて話し、場合によってはのらりくらりと躱すのに。むしろ自分にこんな苛烈な部分があったのだと、はじめて知らされる。横山の前では上手くいかない。 「きみの口から聞きたかった。ただ、それだけ……」  ちいさくしぼり出したのは、たったひとつの願い。  いつの間にか離された手で拳をつくり、目の前の胸を弱く打つ。引き結んだ唇の端がひくつく。  もう終わりだ、いや、はじまってもいないが。  自嘲しつつ項垂れた先では、男の磨かれた靴も霞んで見える。日は長いはずなのに、窓の外はすでに暗くなっているのだろう。それだけ話し込んでしまっていた。 「……え、と?」  頭に血が上り思うまま口にして、相手から反応がないのに今さらながら気づく。己の言動を振りかえり、まるで恋人同士の痴話喧嘩のようだ。赤くなってついで青ざめ、顔を上げられない。 「秋生さんは、それに怒っていたのですか?」  やけにやさしい声音で問われ、頬を包まれる。そそのかされて向けた先は、思いのほか穏やかな表情だった。 「……なんっで、笑ってるんだよ!」 「いえ、嬉しくて、つい……」 「どうせ、子どもみたいって――」 「違います。あなたがムキになってくれるのが、とてつもなく嬉しいです」  言い切って、真顔になった横山は続ける。 「どうも、俺と秋生さん、互いに思い違いをしているようです。俺と話し合う時間をください」 「そんな、今さら――」  佐藤の困惑を割るように、電子音が響く。ディスプレイには、自宅療養中の上司の名前が表示される。  これ幸いと携帯に手を伸ばせば、横山から簡単に解放される。 「……ああ、うん。わかった。じゃあこれからそっちに行くよ」  業務の簡単な状況説明をして、終話のボタンを押しながら見上げた先では、当然のように横山がいい切った。 「俺も行きます。俺にも上司にあたるので問題ないですね」

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