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第8話
気まずいままに電車に乗った佐藤とは対照的に、横山はむしろ機嫌がよさそうで困惑するしかなかった。
「半分身内みたいなものだから、人使い荒いし……」
資料室でのできごとを蒸し返すほど厚顔ではない佐藤は、当たり障りのない話題で場を持たせるしかない。
マンションのエントランスで到着を告げると、勝手に入ってこいと促される。もしや首を傾げる美丈夫は知らないのではないかと遅れて気づく。
「ウチの課長、僕の元奥さん」
佐藤課長。
互いにこの国で多くある佐藤の姓であったため、結婚も離婚も苗字は変わりない。それは仕事での関りも同じで、良くも悪くも変わりない。そもそも違っていたとしても、別姓を選んでいただろう。同姓が課長と補佐でいるため、部署内外では役職名で呼ばれることが多い。
佐藤が横山と関わる前に離婚したので、誰かから聞かなければそもそも彼が知るはずもない。
固まる横山を不審に思いつつも、カードを通して扉を開ける。進むと、ラフな服装でコルセットを巻いた眼鏡姿で出迎えられる。職場ではコンタクトで後ろに流している髪も、今は自然にしている。
「遅かったな」
「起きていて大丈夫なの? 頑張って仕事終わらせたんだよ、これでもね」
口をとがらせれば、低くも高くもない中性的な声が楽し気に響く。
「聞いた」
「なら、まずは横山くんをねぎらってよ」
彼がいなかったら、今の状況より確実に悪化していた。振り返った先は、普段よりも硬い表情の横山。それほど佐藤と上司が元夫婦なのが衝撃だったのか。もしくは課長が怖いのかと思いかけて、彼は上役にも臆せず対応している印象があるので打ち消す。
「悪かったな。異動したばかりでコレの子守りを押しつけて」
ひどい言いザマだ。
「い、いえ……勉強になりました」
むしろこちらが勉強させてもらった方だ。そして配属早々、馬車馬のように使った自覚がある。不可抗力とはいえ申し訳ないことをした。
珍しく歯切れの悪い横山に不審がる。それもそうか、男だと思っていた上司が実は元女性でした、だなんて。と思いかけ、自分が仮に横山の位置でもそれほど重要視していないことに気づく。仕事をする上では他に大切なことがある。
性の不一致に咎める理由も憐れむ理由も佐藤には見当たらず、現在は旧友のような括りとなっている。実際に佐藤の入社時の指導者の同期なのだから、知り合って単純計算二十年近くになる。上司と横山のやり取りを聞きながら、佐藤はぼんやりと振り返る。
「一筆欲しくてな」
業務の報告はついでで、こちらが本題なのだろうと悟る。金銭関係の連帯保証人とか面倒なのでなければいいが、まあそれはないと言い切れるつき合いがある。
差し出された書類に佐藤は首を傾げる。
「婚姻届? ああ、そうか。やっと結婚できるんだね。おめでとう!」
同棲しているかわいい恋人がいるのだ。
徐々に浸透してきてはいるが、パートナーシップは条例なので法的な効力はない。バックについているのが国か自治体か、法と条例とでは雲泥の差がある。好きな人と一緒にいたい、異性同士と同じような権利を得るため、驚くほどの制約を課せられる。
「お祝いしないとね」
己と横山の拗れた事情は置いて、心から祝福する。
「待ってください!」
「お?」
「え?」
「まさか復縁するんですか!」
かろうじて目上に対して敬語の体裁はとっているが、明らかに怒気が混じっている。普段から丁寧な物腰を崩さない横山にしては珍しいことだった。
「その耳は飾りか。証人欄に署名が欲しいんだよ」
半目になった上司は腕を組む。上司と部下の会話というより、横山の一方的に剣呑な雰囲気に、どうしたものかと佐藤は見守る。
「いや、それでも、元夫に婚姻届けの証人欄を書かせるのはひどいでしょう!」
「そうなのか?」
確認のため話を振られた以上答えないわけにはいかず、思案しながら佐藤は口を開く。
「まあ、俗にいう仮面夫婦だったから、僕は特別思うことはないけれど。ただ、まあ世間体ってのを考えるなら他の人の方がいいのかな?」
それぞれの友人でも問題ないはずだ。たぶん横山の指摘はデリカシーとか、そちらの分野のものだ。
「今さら世間体だなんて、クソの役にも立たん。だいぶ支えられたからな。これ以上の適任者はいない。二人の意見だ」
「なら――」
「冗談じゃありません!」
佐藤の返答に被せるようにして横山が言葉を遮る。視界からも逸らすように佐藤の腕を引いて影に隠し、横山が上司と対峙する。
「――ほう? いい度胸だな、ヒヨッコの分際で」
今の横山にヒヨッコだなんて揶揄れるのは、おそらくこの上司だけだろう。
腕を組んだまま挑発的に横山を仰いだ上司はゆぅっくりと口角を上げる。ああ、ろくなことを考えていない悪い顔をしている。嫌な予感とは得てして外れない。人知れず、佐藤はため息をつく。
「そもそも今日は、横山は呼んでいないぞ?」
「そんなこと重要ではありません。課長は一体、どこから画策していたのですか!」
「人聞き悪いな。いい経験ができただろう?」
「拗れたの間違いでしょう!」
「拗らせたのは、お前らのコミュニケーション不足だ。責任転嫁するな」
なんの話なのか、主語がないので佐藤にはさっぱりだ。
ただわかるのは、責めているのは横山の方であるが、どう見ても余裕があるのは上司の方で軍配が上がるのはこちら。
「帰国してから秋生さんが妙によそよそしいんですよ、あなたじゃなければ誰ですか!」
「え、僕?」
まさか矛先がこちらに向かうとは思わず、佐藤は目を丸くする。
「なんだ、感動の再会はなかったのか」
二人の視線を受けるが、訳がわからない。
上司の口ぶりから、どうやら佐藤と横山の関係性を知っているらしい。しかも現在だけではなく、横山が出国する前も。
「先ほど、秋生さんが思い違いをしているらしいことを、聞き出したんですよ。やっと!」
「愛されていないんじゃないか?」
「あなたねえ!」
ニヤニヤと笑う上司に、横山が食って掛かる。
「……三年前の本社異動は、課長の差し金ですよ」
「え?」
横山の人事は異色すぎた。前回は佐藤だけが知らされていなかったのだろうが、今回も。どちらにしろタイミングが良すぎるのだ。
佐藤に向き合いつつ、ため息まじりの横山が答える。
「要約すると、使えないヤツは秋生さんに手を出すなと、けん制されました」
たぶんであるがオブラートに包まれていない、剥き身の鋭い刃のような言葉を投げられたのだろう。当時を垣間見た横山の顔が渋くなる。
まあ手は出されたし、最終的に受け入れたのは佐藤であるが。そこまで目の前の上司であり友人であり、元妻が口出したのだろうか。
「だから経験を積むために本社へ行ったんです。否定はできませんでしたから」
「横山にとっての褒美だったんだよ、お前は」
優秀な部下が会社に居続けるよう、上司によって順調に飼い殺されていたと。しかもどうやら横山の鼻先にぶら下げられたエサは、分不相応ながら自分らしいとも。
「知らない、そんなの……」
衝撃的な事実に頭を抱えたくなる。
「待っていてください、っていいました」
「え、いつ?」
初耳だ。
喧嘩別れではないが、それに近い状態で離れて何年も音沙汰なしは異常といっていい。個人が数台通信機器を持つ、この現代にだ。
一晩限りだとオヤジがなに言っていると横山に冷たくあしらわれるのが怖くて、佐藤からは通話ボタンを押せなかった。鳴らない着信を待つのをやめたのはいつだったか。
「出国直前のベッドの――」
「ひぇぇッ!」
なんてことを言うのだ。急いで横山の口を塞ぐ。
確かに酒で頭は回っていなかったし、意識も半分飛びかかっていたが。
「乳繰り合うなら余所でやれ」
嫌な汗をかく佐藤とは対照的に、上司は煙ったそうに顎をしゃくる。
「はめられたのを、俺も今、知りました」
「どいつもこいつも人をなんだと思ってる。そこまで鬼畜じゃないぞ」
当初狙ったのではないだろうが、結果として利用したのだろう。
「じゃあ、連絡がなかったのも……」
「毎日でもあなたに電話したかったに決まっているでしょう!」
ピンと来ていない佐藤の反応が気にくわなかったのか、横山はだんだん声を荒げていく。
「そこまで薄情じゃありません。何度も連絡しようとしましたし、帰国も当然考えました。なぜか察知されてことごとく阻止されましたし、秋生さんからは着信拒否されていましたが」
矢継ぎ早に繰り出される言葉に圧倒され、口を挟む余地もない。
そもそもの内容に、佐藤は目を瞬かせる。
「僕の携帯、きみを拒否してあったの?」
覚えがなくて困惑すれば、佐藤の肩に顔を埋めた横山が苦々しげにいう。
「秋生さんが設定していなければ、課長でしょう。そうか、この前電話に出なかったのは、まだ拒否されていたからだったのか。おかしいと思っていたんですよ、アプリでは普通に出てくれるのに電話だけ出ないの」
「細工はそれと迷惑メールの設定しかしてないぞ。そもそもがこっちから通話していれば問題ないだろ。――な? 愛されてないだろ?」
「さらに傷口を抉らないでください……」
「なんか、ごめん。たくさん気づいてなくて」
深いため息をついてうなだれる背をさする。
いいように手のひらの上で踊らされている。会社側として上司の思惑だけでなく、友人などのイチ個人として佐藤を案じているのも合間に受け取れて、一概に大きく文句もいえない。そして同僚や元夫としてよりも、どちらかといえば弟とかそんなカテゴリーに入れられているような気がしてならない。
「秋生さんのせいではありませんから、大丈夫です……」
覇気のないままいわれても説得力などありはしない。
「課長のおかげで、成長したと思うことに、します。……とても悔しいですが! 舅や姑ですか、あなた!」
後半は上司に向けての言葉だ。
「苦労をかけるね」
どうフォローしたものかと考えあぐねた先が、結局いたわるだけで心許ない。
「人聞き悪いな。いい腕の右腕ができただろう?」
言葉の意味を掴み損ねて、佐藤は湯飲みを口に運ぶ姿を見守る。からかいを含んだ声音を改められる。
「ここまで話が大きくなるとは見込み違いだったが、あのプロジェクトは遅かれ早かれそっちに任せる予定だった。そのため早めに横山を呼び寄せたところもある。本人の強い希望もあったしな」
「……え?」
揉めることがあらかじめ解っていたというのか。
唖然とした佐藤に、上司はサラリと手の内を明かす。
「お膳立てはしてやったが、後はお前の力だ。やっと頭角を現したな」
コト。
湯飲みの置かれる音が、大きく響く。
「いつまでも補佐の立場に甘んじているな。上に押し上げようにも伊藤名誉会長とも頭を抱えていたが、ちょうどいいように転んだ。会社には人材を遊ばせておく余裕はない。自己評価が低いのは新人の頃から知っているが、悲劇の主人公はそろそろ卒業しろ。待っていても白馬に乗った王子サマは来ないぞ」
静かに目を見開く佐藤とは対照的に、上司は窓の桟に背を預けてフッと目元を緩める。
「何年一緒にいると思っている。まあ、高柳のような力と抑制だけの指導では、誰も続かないし身にならない。そこからお前はよくやっている」
まさか、気づいていたとは。新人の時の傷は、横山以外には話していない。むしろ月日が経って、やっと向き合えるようになったとも言える。
当時を知っているからこその言葉の重みに、じんわりと胸に広がるものがある。それも横山とのやり取りがなければ、上司の言葉も自分は流してしまっただろう。ただ、卑屈に捉えるだけで。それだけ大切なものを横山にもらった。
「自分が思っているよりも、他人はお前を評価しているってことだ」
そこはソレ、横山も過大評価しているが未だ自分の中に落とし切れてはいない別問題だ。
「……伊藤、名誉、会長?」
どこかで引っかかりを覚えて反復すれば、入職時に入れ違いでの隠退(いんたい)だったかと零される。そして、いつも会っているだろうとも続けられる。
『そりゃ、人が居ない方が掃除は捗るからなぁ』
目尻の深いシワ、忙しなく動かされる清掃道具。
油断していたところにガツン、と後ろから頭を殴られたようだ。
掃除のしやすさではなく、人の目という意味か。
「…………馴れ馴れしく、話して、いたよ……」
いつからだ?
知らなかったとはいえ、己の失態の大きさに佐藤は呻いた。
次からどんな顔して会えばいいのだ。自分が迂闊だったのだが、いいように遊ばれた気がしてならい。
「フレンドリーなじいさんだから問題ないだろ」
軽く笑われ、さも他人事な上司は軽くいなす。実際そうなのだが。
「……やられた」
手のひらで顔を覆って嘆く。
監視員の目の届く範囲で泳がされていたのは、溺れかけの新人やその周囲だけではなく、浅瀬で足を遊ばせていた自分も含まれていたということだ。人間不信に陥りそう。自分のことは棚に上げて佐藤は唸る。
「職員の相談役として、他の部署との顔つなぎは充分すぎるほどの成果がある。今まで誰にも持っていない強みだ。今後使えるモノは存分に使え。頼りにしているぞ」
戯れ口から一変、冴えた声音に視線を上げる。
スッと細められる瞳に、本気を酌む。
「ただ年を食っただけの老人がのさばっているのでは先が見えている。くだらない体制から脱皮するぞ」
それは会社の体制だけではないだろう。この人自身が世間一般とされている性別では括れないことからも考え得ること。多様化する中で――というよりも、元からあったが『ないモノ』として、今まで多数から捻り潰され無視されてきた。それが徐々に顕わになったに過ぎない――イチ個人を見つめ直す必要があるというだけ。
「僕は」
二人から視線が注がれるのを自覚しつつ、佐藤は言葉を重ねる。
「自分のできることしかできないよ。自分にも他人にも甘やかす」
「ソレがいい。てめぇの身の丈にあったモノしか合わない。下手に背伸びをするのも見苦しいだけだ。ただ、色眼鏡をかけず見つめる視点が欲しい」
顎を引きながら肯定され、夫婦としていた時よりもずいぶん踏み込んで話していると、ぼんやりと思考を飛ばす。
「代わりに、この男を存分に使ってやれ。そのために半ば無理言って、本社に送ったんだ」
「……え?」
声を漏らした佐藤に、上司は不遜な態度で言い放つ。
「当時まだまだひよっこだった横山なんぞに、安心して大切なお前を任せられるか」
今はだいぶいい顔になってきたがな、と付け加えられる言葉に佐藤は唖然とするしかなかった。
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