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64.風邪

大学の窓から見える木々の葉が、静かに秋の色へと移ろい始めていた。 彼に振られてから、ちょうど2週間の月日が経とうとしていた。 「くしゅんっ」 「あれ。星七さん、風邪ですか?」 いつも通り大学終わりに本屋でバイトをしていると、同じバイト仲間の白瀬くんに声をかけられる。 白瀬くんは、軽くクセのある茶髪に黒縁メガネをかけた気さくな子で、俺とは違う近くの大学に通っている。 「いや、そんなはずはないと思うんだけどな」 言いながら、俺はダンボールから本を取り出し、背表紙がまっすぐ揃うように丁寧に棚に差し込んでいく。 「そんなはずないって…ちゃんと体温計で熱測った方がいいっすよ?星七さんってなんか、イメージ的にもろ無理しそうなタイプだし」 「はは、そうだね。今日帰ったら一応測ってみるよ。君にも移したら悪いし」 「そんなこと気にしてるワケじゃないっすよ!」 白瀬くんと話しながら本を棚に並べていると、あっという間に上がりの時間を迎えた。 「お疲れ様です」 店長に軽くお辞儀をしてから、俺は店を後にする。駅までの帰路につきながら、俺は息をあげる。 「ハァ…ハァ…」 おかしいな、体が重い……。 家に帰って熱を測ってみると、37.5分だった。 (なんだ微熱か。寝れば治るか、このくらいなら…) ――翌日。 大学の食堂でご飯を食べていると、正面に座り箸を握る藍沢が、俺の顔色を窺いしかめた表情をする。 「星七、お前……顔色悪いぞ」  ぼうっとする頭で藍沢の声を聞く。 「お前、ここのとこいつもより多めにバイト入れてるし、昼食もほぼ食べてないだろ?」 「……」 「星七?」 「…え?」 ゆっくりとした動きで顔を上げると、藍沢が深い息を吐く。 「お前、今日のバスケやめとけよ。絶対だ。いいな」 藍沢の言葉は、右から左へつうっと流れていくようで、よく聞き取れなかった。 放課後、ボールを持ち、いつも通り体育館を駆け回る。 「ナイス!」 仲間の声に、俺は汗を滲ませながら笑う。 重たい体を引きずるように動かす。 こんな風邪程度では、休めなかった。 この程度で弱音を吐くわけにはいかなかった。 アイツが受けた痛みに比べたら、こんなもの―― そうだ、まだ動ける。いける、まだ。 俺は必死に足を動かす。急き立てられるように。かつての旧友の姿を追うように。 しかし、そのうち見えている景色がひっくり返るのがわかった。 すぐに、騒然とする周囲の声が聞こえる。 …違う。俺はまだ、やれる。 ……まだ、動けるから―― 「通して」 遠のく意識の中で、誰かの声がした。 「俺が彼の家までタクシー呼んで運びます」 ふわりと体を、抱きかかえられる感覚。 ……誰? もしかして、藍沢なのか…? 優しくて、だけど力強い腕の中は、あたたかくてほっとする。 瞼の裏に、霧のかかった向こう側で、“彼”が振り向くのが見える。 『星七』 楽しげに笑う彼はまだ、あの頃の学生服を着たまま。 『…まーた無理して。馬鹿だなお前』 呆れたように、だけど優しい、彼の声が聞こえる。 『でも…正直、すげーかっこよかったぜ。お前のさっきのバスケ』 これまでずっと、何度も、彼を夢に見てきた。 けれどいつも、ぼんやりとしてしか見えていなかった気がする、彼の残像。 はっきりと分からなかった彼の姿が、今、なぜか霧が晴れるようにして、目の前に鮮明に浮かび上がった。 そこには、眩い陽ざしの中で、俺に向かって確かに――にっと笑いかけてくる、かつての親友の姿がある。 俺はその姿を、ただ凝視する。 瞳を大きく、見開きながら。 その瞬間、彼と過ごした時間が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。 笑う彼の姿がゆっくりと遠ざかり、消えゆくのを見届けながら、俺は静かに微笑み――涙した。

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