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70.蘇る恋慕(藍沢side)

部屋に入ると、星七はベッドで眠っていた。 俺はベッドの脇に立ち、しんどそうに目を瞑る星七を黙って見つめた。 “彼をいつまでも過去に踏み止めているのは、あなたです。彼の幸せを想うなら、彼を自由に歩かせるべきだ” 彼の言葉を思い出しながら、俺はカーペットの上に膝をつき、星七の頬にそっと手を添えた。 いとも簡単に触れられる距離にいる彼に、無防備な彼の姿に、俺はいつも翻弄される。 いつも俺は安全だと、そう認識している彼に、嬉しいと思うと同時に、強い腹ただしさも覚えた。 ……あの男が俺は羨ましかった。 たった数日会っただけで、星七の心をいとも簡単に揺れ動かす、あいつが。 堂々とまっすぐに、俺を見るあいつが、 羨ましくて、憎かった。 俺はこうして彼の傍にずっといるが、彼の最愛の恋人になれるわけではない。 それは多分、彼に出会った時から決められた運命で、覆すことの出来ない現実だ。 彼は俺を、……そういう目で見ることは無い。 心の中で、彼を解放して自由にさせてあげたい気持ちと、もう少しだけこのまま、自分の傍で独占していたい自己中心的な欲求で、激しくせめぎ合う。 けれど、本当はもう、分かっているんだ。 あの男はきっと、お前を幸せにしてくれる。 きっとお前を、囚われた過去の世界から、縛りのない今という世界へ、連れ出してくれると。 そう…… それはずっと前から分かっていたことであり、 俺自身が、――長い間望んでいたこと。 ……なのに。 俺は星七の頬から手を離し、その場にへたりこんだ。 どうにもならない感情が胸の奥から突き上げるように湧き上がって、目の奥を熱く湿らせる。 好きだった、 ……好きだった。 多分もう、どうしようもなく。 『ねえ、このペンケースいいね。なんか、藍沢くんと似てない?』 『…だけど俺、眼鏡かけてない藍沢の顔も、すごく好きだな』 そう言って、俺に屈託のない純粋な笑顔を向けた、あの時の彼の顔が、フラッシュバックするように蘇る。 『あっ、藍沢が照れてる〜!』 『照れてる〜〜』 過去にはしゃいでいた彼らの声と笑顔が蘇って、俺は掛けていた眼鏡を外し、目から堪え切れない何かを流した。 どれも些細な、ありふれた出来後だった。 だけど、俺にとっては全て、大切な思い出だった。 ……過去に執着していたのは俺だ。 手離したくなかった。星七も、あの頃の思い出も。 …大事だった。 ……大切だった。 どうしても、諦めきれなかった…っ… どうしても、認めたくなかった。 だけどもう…お前を手放してやらなきゃいけない。 お前の背中を、押してやらなきゃいけない。 過去から星七を、送り出さなきゃいけない。 だってそれが、俺に課せられた“役目”なのだから。 その後、眠っていた彼が目を覚ます。 ベッドに顔を伏せていつの間にか寝落ちしていた俺は、眼鏡を掛けながら彼に声をかける。 「ごめん…」 何故俺の言うことを聞かなかったのか。そんな自己中な問いに、彼は俺に謝る。 何も悪いことなどしていなくても、彼は俺に申し訳ないという気持ちを抱いている。 「そういえば、倒れてからここまで運んで連れて来てくれたのってさ…藍沢?」 思い出したようにして呟く星七に、正直に答えようとしていた。しかし、 「そんなわけないよな。俺は彼に、振られたんだから」 自嘲気味に笑って言う星七を見た瞬間に、俺は気づいてしまった。 星七が、あの男を想うその気持ちに。 「ああ。運んだのは俺だ」 「……」 「ここで、ずっとお前が目覚めるのを待ってた」 だからこれは、抗いにもならない、ささやかな俺の最後の対抗心だった。 「ぁ…ふ…っ」 口付けを交わすと、彼は熱で潤んだ瞳を閉じ、力のない手で俺の胸を押す。 困らせると分かっていながら、彼への行為を止められないのは、単純な恋慕という欲情から来るものだけではなかった。 それは、せめてもの体だけは繋がっていたいという 情けなく、みっともないほどに縋りついた執着。 俺では、彼の心を手に入れることはできない。 どれだけ願っても、この恋が、叶うことはない。 「俺を、殴ってくれよ……星七」 彼の体を抱き締める。 もうすぐ、俺の手から離れていく彼を、胸に予感しながら。

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