74 / 151

74.好きな人

突然、スマホの着信音が鳴り響き、画面が切り替わった。画面に表示された名前を見て、濡れた目を大きくする。 え……片桐君……? しばしコール音を聞いた後、俺はその場に立ち止まったまま、恐る恐る通話ボタンを押してスマホを耳へと当てる。 「…もしもし」 すると、 「もしもし。星七さん?」 変わらない、彼の低く、落ち着いた優しい声が聞こえた。 「片桐君、なんで…」 「電話したらダメですか?」 「え…」 「今、何してるのかなって思って」 彼の話に、俺は慌てて目を擦る。 「今、今は……帰ってるよ、帰り道」 「こんな夜遅くまで。どこで何してたんだか」 「ち、違うよ!今日、学園祭で…それの打ち上げで、ついさっきまでお店に――」 「8丁目辺りの居酒屋ですか」 「あ、うん…そう」 あれ。なんで彼が知って……? 「風邪、治ったんですね」 「うん……何で風邪引いてたこと知ってるの?」 「何でも知ってますよ。星七さんのことなら。今も、泣いてるんじゃないですか」 え……。 「声で分かります」 声か…ビックリした。 「なんで泣いてるか、理由聞いてもいいですか?」 「……それは」 俺はスマホをぎゅっと握りながら、顔を上に向けた。夜空を見上げる余裕はなかった。 「それは、言えないよ」 強く唇を噛んだ。 「どうして。過去の彼のことですか?」 「…ちがうよ」 俺はなぜかまた湧き出す涙を手で拭った。 「じゃあ、何に悲しんでるんですか?」 俺は彼の声を聞きながら、ぼろぼろと涙を流して言った。 「片桐君……俺のこと、嫌いにならないで……」 「たまに、電話を掛ける友達でいい……。ううん、友達じゃなくてもいい。それじゃ、ダメかな…」 失いたくない。彼の優しい眼差しを。 俺が一番じゃなくてもいい。だからせめて…繋がっていたい。 「嫌です」 突如、スマホから通じて聞こえた、ストレートな彼の声。 その瞬間、心臓を抉られるような胸の痛みが走った。 目の前が真っ暗になるほどの衝撃に襲われ、もう二度と這い上がれない――そう思わせるほどの、絶望を感じた。 「あ……そ…そうだよね」 俺は涙を流しながら笑う。 「俺、すごい、ふらふらしてるし……片桐君に、釣り合ってないし」 「……」 「わ…分かった」 すると、突然プツッと電話が切れた。 俺はスマホをゆっくりと下におろしながら、その場に座り込んだ。 あんなに優しくしてくれたのに。俺、いつも、今も、自分のことばっか…。 彼と、真正面から向き合おうとしなかった。いつも逃げてた。彼に、嫌われたくなくて。隠し事ばかりして。彼のことを、傷付けた。 …その報いを今、まさに受けたような気分だった。 俺は大切だったものをまた、失ってしまったんだ。 「星七さん」 ふと、 なぜか聞こえるはずのない、彼の声がした気がした。 俺は地面に座り込んだまま、枯れることの無い涙を流し続けながら、体を硬直させた。 確かに切られたはずの通話。それなのに、なぜ彼の声がするんだろう。 「あなたと友人関係になるなんて、俺は嫌です」 考える前に、彼の声がした。 後ろから聞こえる、近づいてくる足音。 俺は座り込んだまま、怖くて後ろを振り向けずにいる。 「聞いてます?」 「き、聞いてるよ」 俺は平静を装い、唇を閉め、目元を拭った。背後に、彼が静かに屈む気配を感じた。 「……星七さん。なんで、泣いてるんですか?」 電話口じゃない、耳に直接届く彼の声。優しくて、心地よくて、…懐かしくて。 同時に彼に対して、ものすごく腹が立った。 「なんで……さっきから何度も同じこと、聞いてくるの…っ?」 何言ったって、もう遅いのに。終わっているのに。もう、無理なのに。 「俺のこと、友達にもなれないくらい信用してないんでしょ…っ?」 なのに、今更……彼にこんなこと伝えたって―― 「なんで、俺に構うのっ?」 「星七さんが泣いてるから」 「なっ、……泣いてるからって、こんなふうに話しかけて来ないでよっ」 「どうして?」 「辛いからっっ」 「じゃあ…何で辛いと思うんですか?」 瞳から止められない涙を零し続けながら、俺は唇を噛んだ。 何でって、それは…… 言葉にしようとして、俺はそっと瞳を開ける。 (……あれ) 視界を開いた先には、静かな夜の住宅街が辺りを包み込み、ここには俺と彼しかいない。 俺は濡れた瞳を揺らす。 ……あれ…… 俺、今まで一度だって、彼に好きって言ったことがあったっけ。 胸の鼓動がドクドクと音を立てるのを聞きながら、俺は鈍い思考を働かせた。 「…どうしてですか」 再び聞こえた彼の声に、体中の細胞が反応するかのよう。 胸の中に、淡い期待がふと芽吹く。 ……まだ、間に合うのかな。 だけど、――ううん。そんなわけない。ありえない。ありえないよ。 けれどもし、 もし…まだ、この気持ちが、彼に届く可能性があるとしたら。 もし、そうなら……? ごくり、唾を飲み込む音が、彼に聞こえていないだろうか。 これから言おうとしている言葉は、察しのいい彼に、もしかしたらもう、勘づかれているんだろうか。 たった短い言葉を吐くだけなのに、俺は怖くてたまらない。 怖くて、……たまらないんだ。 「……………好き、だから」 瞳に涙が溜まる。 自分の発した声は、もしかしたら小さくて、彼に届いていないかもしれない。 無理だって、分かってる。 でも、もし1%でも、可能性があるのなら。 もしあるのなら、怖くても迷わない。 本当に大切なものに、大切な人に、気付いたから。 「片桐君のことが…、……好きだからだよ…っ」 その声が、確かに届いた――その瞬間に。 「……!」 息が詰まるほどの勢いで、背後から、力強い腕に抱きしめられた。 恋い焦がれた香りが鼻先をかすめ、ただそれだけで、彼の存在を強く感じた。 ずっと塞がれていた暗い道が、鮮やかに色づき、光を帯びて、目の前に開けていく。 沈んでいた体が、まるで力強い彼の手に、引きあげられるかのように。 …彼の言葉が、いつも、俺を連れ出す。 過去に囚われた世界から――今という瞬間へと。 込み上げてくる想いが、涙になって、とめどなく溢れていく。 色付いていく。彼という存在が、止まっていた俺の時間を、ゆっくりと…再び動かしていく。 俺は、たくさんの感情が入り混じった大粒の涙を、地面へと落とした。 「………やっと、言った」 耳元で、彼のそんな声が聞こえた。 俺はゆっくりと彼の腕の中で後ろへ振り返り、近い彼の顔を、濡れた瞳で見上げた。 そこには、口角の上がった優しい彼の表情。 俺はまだ、信じられずに瞳を大きくさせる。 「…片桐君、俺」 言葉を紡ごうとした体を、さっきより強く、問答無用で抱き寄せられる。 それは確かな感触で、彼の匂いで、確かに俺は今、彼に抱き締められていて。 それは夢のようで、だけど絶対、――夢じゃなかった。 「俺、ずっと、自信がなかった……。星七さんが、俺を好きでいてくれてるのかどうか」 耳元で聞こえる、彼の初めて聞く本音が、胸の奥深くまで伝わって、熱く、じわりと優しく染み渡っていく。 彼の体温が、鼓動が伝わって、俺は彼の方に向き直って、背にぎゅっと強く両手を回した。 もう……絶対に間違えない。 絶対に手離したくない、彼を。もう…二度と。 絶対に。 「…好きだよ」 こんな一言だけじゃ、伝わらない。 「すき」 一度零れた言葉は、想いは、まるで留まる術を知らないかのように、滝のように溢れて、止まらない。体中から溢れてくる……彼を愛しく思う感情が。 「俺、片桐くんのことが好き。すごく好き、……大好き」 彼に一度体を離される。 片桐君は少し面食らった表情で俺を見たあと、困ったように自らの頭に手を置いた。 「……星七さん」 どこか熱を帯びた彼の瞳がちら、と俺を見た。 「今からタクシー呼んで……俺の部屋に、連れ込んでもいいですか?」 彼の声に、話に、仕草に。すべてに、胸がどきどきとして。 「……うん」 多分もうきっと、俺の瞳には、…彼のことしか、 ――映っていなかった。

ともだちにシェアしよう!