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74.好きな人
突然、スマホの着信音が鳴り響き、画面が切り替わった。画面に表示された名前を見て、濡れた目を大きくする。
え……片桐君……?
しばしコール音を聞いた後、俺はその場に立ち止まったまま、恐る恐る通話ボタンを押してスマホを耳へと当てる。
「…もしもし」
すると、
「もしもし。星七さん?」
変わらない、彼の低く、落ち着いた優しい声が聞こえた。
「片桐君、なんで…」
「電話したらダメですか?」
「え…」
「今、何してるのかなって思って」
彼の話に、俺は慌てて目を擦る。
「今、今は……帰ってるよ、帰り道」
「こんな夜遅くまで。どこで何してたんだか」
「ち、違うよ!今日、学園祭で…それの打ち上げで、ついさっきまでお店に――」
「8丁目辺りの居酒屋ですか」
「あ、うん…そう」
あれ。なんで彼が知って……?
「風邪、治ったんですね」
「うん……何で風邪引いてたこと知ってるの?」
「何でも知ってますよ。星七さんのことなら。今も、泣いてるんじゃないですか」
え……。
「声で分かります」
声か…ビックリした。
「なんで泣いてるか、理由聞いてもいいですか?」
「……それは」
俺はスマホをぎゅっと握りながら、顔を上に向けた。夜空を見上げる余裕はなかった。
「それは、言えないよ」
強く唇を噛んだ。
「どうして。過去の彼のことですか?」
「…ちがうよ」
俺はなぜかまた湧き出す涙を手で拭った。
「じゃあ、何に悲しんでるんですか?」
俺は彼の声を聞きながら、ぼろぼろと涙を流して言った。
「片桐君……俺のこと、嫌いにならないで……」
「たまに、電話を掛ける友達でいい……。ううん、友達じゃなくてもいい。それじゃ、ダメかな…」
失いたくない。彼の優しい眼差しを。
俺が一番じゃなくてもいい。だからせめて…繋がっていたい。
「嫌です」
突如、スマホから通じて聞こえた、ストレートな彼の声。
その瞬間、心臓を抉られるような胸の痛みが走った。
目の前が真っ暗になるほどの衝撃に襲われ、もう二度と這い上がれない――そう思わせるほどの、絶望を感じた。
「あ……そ…そうだよね」
俺は涙を流しながら笑う。
「俺、すごい、ふらふらしてるし……片桐君に、釣り合ってないし」
「……」
「わ…分かった」
すると、突然プツッと電話が切れた。
俺はスマホをゆっくりと下におろしながら、その場に座り込んだ。
あんなに優しくしてくれたのに。俺、いつも、今も、自分のことばっか…。
彼と、真正面から向き合おうとしなかった。いつも逃げてた。彼に、嫌われたくなくて。隠し事ばかりして。彼のことを、傷付けた。
…その報いを今、まさに受けたような気分だった。
俺は大切だったものをまた、失ってしまったんだ。
「星七さん」
ふと、
なぜか聞こえるはずのない、彼の声がした気がした。
俺は地面に座り込んだまま、枯れることの無い涙を流し続けながら、体を硬直させた。
確かに切られたはずの通話。それなのに、なぜ彼の声がするんだろう。
「あなたと友人関係になるなんて、俺は嫌です」
考える前に、彼の声がした。
後ろから聞こえる、近づいてくる足音。
俺は座り込んだまま、怖くて後ろを振り向けずにいる。
「聞いてます?」
「き、聞いてるよ」
俺は平静を装い、唇を閉め、目元を拭った。背後に、彼が静かに屈む気配を感じた。
「……星七さん。なんで、泣いてるんですか?」
電話口じゃない、耳に直接届く彼の声。優しくて、心地よくて、…懐かしくて。
同時に彼に対して、ものすごく腹が立った。
「なんで……さっきから何度も同じこと、聞いてくるの…っ?」
何言ったって、もう遅いのに。終わっているのに。もう、無理なのに。
「俺のこと、友達にもなれないくらい信用してないんでしょ…っ?」
なのに、今更……彼にこんなこと伝えたって――
「なんで、俺に構うのっ?」
「星七さんが泣いてるから」
「なっ、……泣いてるからって、こんなふうに話しかけて来ないでよっ」
「どうして?」
「辛いからっっ」
「じゃあ…何で辛いと思うんですか?」
瞳から止められない涙を零し続けながら、俺は唇を噛んだ。
何でって、それは……
言葉にしようとして、俺はそっと瞳を開ける。
(……あれ)
視界を開いた先には、静かな夜の住宅街が辺りを包み込み、ここには俺と彼しかいない。
俺は濡れた瞳を揺らす。
……あれ……
俺、今まで一度だって、彼に好きって言ったことがあったっけ。
胸の鼓動がドクドクと音を立てるのを聞きながら、俺は鈍い思考を働かせた。
「…どうしてですか」
再び聞こえた彼の声に、体中の細胞が反応するかのよう。
胸の中に、淡い期待がふと芽吹く。
……まだ、間に合うのかな。
だけど、――ううん。そんなわけない。ありえない。ありえないよ。
けれどもし、
もし…まだ、この気持ちが、彼に届く可能性があるとしたら。
もし、そうなら……?
ごくり、唾を飲み込む音が、彼に聞こえていないだろうか。
これから言おうとしている言葉は、察しのいい彼に、もしかしたらもう、勘づかれているんだろうか。
たった短い言葉を吐くだけなのに、俺は怖くてたまらない。
怖くて、……たまらないんだ。
「……………好き、だから」
瞳に涙が溜まる。
自分の発した声は、もしかしたら小さくて、彼に届いていないかもしれない。
無理だって、分かってる。
でも、もし1%でも、可能性があるのなら。
もしあるのなら、怖くても迷わない。
本当に大切なものに、大切な人に、気付いたから。
「片桐君のことが…、……好きだからだよ…っ」
その声が、確かに届いた――その瞬間に。
「……!」
息が詰まるほどの勢いで、背後から、力強い腕に抱きしめられた。
恋い焦がれた香りが鼻先をかすめ、ただそれだけで、彼の存在を強く感じた。
ずっと塞がれていた暗い道が、鮮やかに色づき、光を帯びて、目の前に開けていく。
沈んでいた体が、まるで力強い彼の手に、引きあげられるかのように。
…彼の言葉が、いつも、俺を連れ出す。
過去に囚われた世界から――今という瞬間へと。
込み上げてくる想いが、涙になって、とめどなく溢れていく。
色付いていく。彼という存在が、止まっていた俺の時間を、ゆっくりと…再び動かしていく。
俺は、たくさんの感情が入り混じった大粒の涙を、地面へと落とした。
「………やっと、言った」
耳元で、彼のそんな声が聞こえた。
俺はゆっくりと彼の腕の中で後ろへ振り返り、近い彼の顔を、濡れた瞳で見上げた。
そこには、口角の上がった優しい彼の表情。
俺はまだ、信じられずに瞳を大きくさせる。
「…片桐君、俺」
言葉を紡ごうとした体を、さっきより強く、問答無用で抱き寄せられる。
それは確かな感触で、彼の匂いで、確かに俺は今、彼に抱き締められていて。
それは夢のようで、だけど絶対、――夢じゃなかった。
「俺、ずっと、自信がなかった……。星七さんが、俺を好きでいてくれてるのかどうか」
耳元で聞こえる、彼の初めて聞く本音が、胸の奥深くまで伝わって、熱く、じわりと優しく染み渡っていく。
彼の体温が、鼓動が伝わって、俺は彼の方に向き直って、背にぎゅっと強く両手を回した。
もう……絶対に間違えない。
絶対に手離したくない、彼を。もう…二度と。
絶対に。
「…好きだよ」
こんな一言だけじゃ、伝わらない。
「すき」
一度零れた言葉は、想いは、まるで留まる術を知らないかのように、滝のように溢れて、止まらない。体中から溢れてくる……彼を愛しく思う感情が。
「俺、片桐くんのことが好き。すごく好き、……大好き」
彼に一度体を離される。
片桐君は少し面食らった表情で俺を見たあと、困ったように自らの頭に手を置いた。
「……星七さん」
どこか熱を帯びた彼の瞳がちら、と俺を見た。
「今からタクシー呼んで……俺の部屋に、連れ込んでもいいですか?」
彼の声に、話に、仕草に。すべてに、胸がどきどきとして。
「……うん」
多分もうきっと、俺の瞳には、…彼のことしか、
――映っていなかった。
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