54 / 151

54.月の光(片桐side)

物語は、母を守れず父の力に支配される、無力な自分から始まる。 『母さんっ!』 『壮太郎、危ないからあっちに行ってなさい』 『母さん俺、大きくなったら俺が母さんを守るよ。だから、…もう少しだけ待ってて』 俺の言葉に、彼女はほんの少し困った顔で微笑む。 母はその後、病にかかり、病院に入院することになる。 『壮太郎…ごめんね。ずっと一緒に居られなくて』 衰弱しきった母に対して、俺にできることは何も無かった。 ただ悔しくて唇を噛むしかできない俺に向かって、それから…と母が呟く。 『お父さんのこと、…許してあげて』 場面は変わり、とある施設へと移る。 『片桐壮太郎くんね。…ご両親のこと、辛かったわね。今日からはここで皆で過ごします』 遠い過去が、音色によって手繰り寄せられるように、鮮明に思い出されていく―― 『あなたの引き取り手が見つかったわ、早かったわね。良いところのお家よ。良かったわね』 そこは、以前住んでいたところよりもずっと広く、綺麗で豪華な家。大きな庭園に、仲の良い夫婦。付き人らしき男たち。 『壮太郎、今日からよろしくね。そうだ。紹介するわ、この子は貴方のお兄さんよ』 養母の背後から、俺より数個歳上だろう人影が姿を現した。 襟元まできちんと止められたボタンに、整えられた清潔感ある髪。彼の片腕には、重そうな本が抱えられていた。 彼は確か…同じ施設にいた…。 『壮太郎、凄いな。もうこんな問題が解けるのか』 平穏であたたかな環境に、なんの不満もなかった。…ただひとつ、彼を除いては。 『寄るな』 彼は俺に、いつも強い憎悪の目を向ける。育て親の気持ちに応えれば応えるほど、それは日に日に強くなっていった気がした。 『お前は所詮、“スペック”だけで拾われたんだよ。愛想ひとつ振りまけないくせにチヤホヤされて、いいご身分だな』 冷たい瞳が俺を見る。 『いいか、よく聞け。あの人たちは、“お前そのもの”が好きなわけじゃない。欲しかったのは、使える子ども。――ただそれだけだ』 胸に、何か鋭いものが刺さったような感覚が残る。 義理の兄の言っていることが、そのとき何故だか、正しいような気がしてしまった。 それ以来、俺は家にだんだんと居場所を見いだせなくなっていった。 早くに亡くなった、実母と実父。 同年代のクラスメイトともあまり反りが合わなかった俺は、思えばいつも1人だったのかもしれない。 愛情という感情に、俺は飢えていた。 どうしたら愛されるのか、俺にはそれが分からない。慕ってくる仲間はいても、それは俺自身を見ているわけじゃない。 愛されたかった。“俺を”、見て欲しかった。 あたたかな気持ちとは何だったか。遠い記憶を辿っても、状況は変わらない。他人に強い関心を抱くこともできない。 ただ、ゆっくりと…体が静かに、底のない闇へと落ちていくのを感じていた。 ある日、アスファルトに横たわり、血の気が引くのを感じながら、俺は立ち上がる気力すら失っていた。 …しょうもない人生だったな。 ふと、人影を感じる。 『大丈夫ですか…?』 突然現れた彼は、心配げな表情で俺を見下ろしていた。 誰だ……こいつ。 『これ、使って』 自分事のように悲しそうな顔をする彼から、俺は無言でハンカチを受け取る。 その後、手を取られて走り去っていく彼の後ろ姿を見ながら、俺は開いた口を閉じる。 …お礼、言い忘れた。 後日、彼を探し出した俺は、彼の元まで訪れる。 『あの時は本当に、…ありがとうございました』 俺の姿に驚く彼。 俺は、立ち去ろうとする彼の腕を、咄嗟に掴んで引き止めていた。 何故かわからない。でも、彼のことが知りたかった。この感情の意味に最初から薄ら気づいていたからこそ、俺は確かめたかったのかもしれない。 そんなわけがない。この人のことを好きなわけが無いと。たった一瞬出会っただけで、しかも同性で。だからこれは、ただの気のせいに過ぎないのだと。 ……そう思っていたのに。 どこか影のある彼に気づき、気になって、ひたむきに生きる彼の姿に触れ、今度は前よりもっと惹かれていって。 自分の中で、何かが、大きく変わろうとしている。 …いや、既に変わり始めている―― どうしたら彼は、俺を愛してくれるだろう。 “彼でも、あの人でもない、俺だけを”その瞳に映すには、一体どうすればいい。 ああ…俺は今きっと、彼の心を追いかけながら、懸命に生きている。 その最中なのかもしれない。

ともだちにシェアしよう!