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84.過去の枷(藍沢side)
俺はひとり、星七が出ていった喫茶店で瞳を伏せていた。
“友達じゃない、ただの他人になるってこと”
俺は自嘲気味に笑って手元にあったドリンクを口にした。
ああ、お前本気なんだな。あの男に。
昔の星七が蘇って、俺に笑いかける。泣いていた彼を、思い出す。彼の温もりを、くれた言葉を。
もう、俺がいなくても、お前は歩けるんだな。…それでいい。走っていくといい。歩いていくといい。俺はお前を追うだろうが、それすら振りきって、前へ進んでいくといい。
俺の手が届かないところまで歩いて、そして、過去を振り返る必要のないくらい、うんと幸せになるといい。
やっと……俺という“過去の枷”から、お前は、解放されるのだから。
店を出て、人がまばらに行き交う街を歩く。
後に、人気のない道へと入ったとき、後ろから気配を感じた気がした。
…気のせいか。
しかし、次の一歩を踏み出した瞬間、突然意識を失った。
***
次に目を覚ました時に見えたのは、どこかの屋敷のようだった。
……なんだここ。
ほんのりと香水のような香りが鼻をくすぐる。壁際には抽象画が飾られ、天井からは細く伸びたガラス製のシャンデリアが下がっている。何となく見える部屋の広さといい、どこかの金持ちの家のようだが…。
つか、腹いて……。そうだ、さっき突然現れた人影に腹部を殴られた気が……。日本も物騒になったな。
そう思いながら横になっていた体を起こすと、目の前の高級そうな長椅子の端に、何故か片桐壮太郎が座っていた。
黒いロングコートを羽織った彼の顔は俯かれ、暗い表情を浮かべているように見える。
「やっと起きたか」
いつもと様子がおかしい彼の姿を不審に思いながら見ていると、左側からそんな声がして振り向く。
そこには、スーツ姿の眼鏡をかけた見知らぬ男が立っていた。男はこちらまで靴音を立てて歩み寄ると、「出せ」と言った。
出せ…?
それに困惑していると、
「ズボンのポケットにあるものを出せ」
そう言われ、ああ。と思いスマホを取り出す。すると、男の手に突然奪われる。
「おいちょっと、何なんだ。突然人のスマホを…」
思わず立ち上がり近付くと、振り返った男の氷のような眼差しが俺を射るように見た。……なんだこの男。――ハッ この男まさか、片桐の兄か?
なぜかは分からないが、瞬時にそう思った。
だが、何だ?ここは。この場所は。
男はたまたまかかってきた俺の電話に出ると、向こう側へと足を進める。
…一体何がどうなってる。
「藍沢さん」
何が起きているのか分からないでいると、椅子に腰かけていた彼に、普段よりも落とした声で呼ばれる。
俺は彼の向かいの椅子に腰掛け、“どういうことだ?”と、小声で囁く。
片桐壮太郎は、目の前に置いてある艶のある木製の大きな机に視線を落としながら、抑えた声で口を開く。
「彼は恐らく、これから星七さんをここに呼び付けるつもりです。あなたを人質にして」
「…なに」
「盲点でした。まさか藍沢さんを連れてくるなんて」
盲点?
眉を寄せる俺の前で、彼はただ曇った表情を浮かべている。
未だよく、事態が理解できなかった。俺を人質に星七をここに呼んだとして、あの男は一体何をしようと言うんだ。それに、目の前に座る彼の影がさした表情も気になる。
「……なあ、まさか、無理矢理あいつに何かしようってんじゃないだろうな」
問いかけに、片桐壮太郎は顔を伏せたまま、低く答える。
「……させるかよ。そんなこと絶対」
彼の膝上に置かれた右手の拳は震えており、俺は彼の堪えきれない感情を確かに感じ取った。
片桐兄と思われるスーツ姿の男の通話が終わり、数十分が経った頃。コンコンと大きな部屋のドアが2回ノックされる音がした。
「失礼します」
それは、よく見知った彼の声だった。
俺は、扉を開け、どこか緊張した面持ちで部屋に入ってくるシンプルな白いシャツに身を包んだ彼の姿を目にする。
「星七 伊吹季です。初めまして、片桐君のお兄さん」
片桐兄が座るデスクまで近づくと、星七がそう言った。
「よく来たな」
「…約束です。彼らを解放してください」
「もちろん」
俺は、スっと背筋良く伸びた、星七の後ろ姿を見つめる。
……星七。
お前本当に、俺がいなくても大丈夫なんだよな。
この男にお前を預けて、本当に、……それでいいんだよな。
それが、お前の幸せなんだよな。
もう、お前が傷つくところは見たくない。
俺はただお前に、幸せになって欲しいだけなんだ。
それなのに、何でこんなことになってる?
答えてくれ、星七……。
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