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86.彼の背中
「こちらのお部屋になります」
黒いスーツに身を包み、髪をきっちり整えた男性が、一礼しながら言った。
目の前にある、厚みのある木製のその扉は、深いこげ茶色で光沢を放っている。
…ここに、彼らが。片桐君の、お兄さんが。
俺はぐっと両手を握り締めた。
(よし、…行く!)
深呼吸をすると、俺は意を決して、部屋の扉をノックした。そのまま扉を開けて中へと入ると、右側の視界に藍沢と片桐君が見えた。
俺は真っ直ぐ、左手に見えた彼の元へと足を進めた。
木製の机の前で足を止めると、椅子に腰かける片桐君の義理の兄と思われる人物を見て言った。
「…星七 伊吹季です。初めまして、片桐君のお兄さん」
彼――片桐君の義兄は、額をすっきりと見せた黒髪に細いフレームの眼鏡をかけ、紺のスーツを着用していた。
彼は俺を見ながら、軽くふっと笑った。それは、片桐君と同じ笑い方なのに全然違う、とても冷たい笑みだった。
「よく来たな」
「…約束です。彼らを解放してください」
「もちろん」
そのとき、背後から誰かが近づく気配がした。振り向く前に、彼が、その大きな体で隠すようにして俺の前に立った。
「彼以外、全員出て行け」
お兄さんは、目の前に立つ片桐君を無視するようにして、そう言い放った。
彼から漂う馴染みある香水の匂いが、ほっと和らぐような安心感を与えてくれた。
「そう言われて、俺が素直に出て行くと思うか?」
「彼とはそういう契約を結んでいる」
「俺は同意してない」
「お前の意見は関係ない」
緊張感ある空気が張り詰める中、俺はただ、彼らのやり取りを間近で目撃していた。
「そこを退け」
「退かない」
「彼と少し話がしたいだけだ」
「そんな言葉…信じられるわけないだろ」
そのとき、不意に、再び後ろから忍び寄る気配を感じた。それはまるで、背筋を撫でるような、嫌な寒気を伴っていた。片桐君が遅れてハッとした表情で、こちらへ振り向くのが分かる。
後ろから何者かによって、首元に冷たいナイフらしきものを突き立てられているようだ。
そばに立つ片桐君は、俺を見ながら大きく瞳を揺らがせていた。
「壮太郎……俺はもう、昔の俺とは違う」
片桐君は、怒りとも嘆きともつかぬ、不安定な表情で俺を見つめていた。
「俺はもう、権力を握っている。意のままに人を動かすことのできる、財力を」
片桐君はそのうち、ゆっくりと、顔を伏せた状態で体を彼の兄の方へと向けた。
「……ここまでして……何が目的なんですか」
俺は彼の、悲しみを帯びた大きな背中をただ見つめた。
「これ以上、……俺から奪おうって言うんですか」
彼の兄は片桐君に目もくれず、手元の複雑な資料に視線を落としていた。
「今のお前に、一体何が出来る」
冷たい彼の声が、広く静かな部屋に響く。前に立つ片桐君の後ろ姿は寂しげで、いつもの堂々した彼の姿とはあまりに程遠く感じられた。
彼の兄はペラ、と紙を捲っている。
「自分を驕り高ぶるな。お前は所詮、仲間内で持ち上げられただけの、ハリボテに過ぎない」
そして、彼の義兄が、スっと冷ややかな氷のようなその視線を片桐君へと向けた。
「――目障りだ、ここから出て行け。二度と俺の前に現れるな」
俺は、彼がゆっくりと足を踏み出し、部屋の扉へ向かっていく姿を見る。
彼がノブに手をかけ、扉を開ける直前――ふいに振り返る。
悲壮感に満ちた表情を浮かべた彼は、囚われた俺にそっと視線を向けた。
けれど次の瞬間、その目を伏せるように顔を下げ、唇を噛み締めながら、彼は部屋を後にした。
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