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88.冷たい瞳
「…さて」
ビク
彼らが部屋を出ていったあと、大きな黒い椅子に腰掛ける彼の声に、俺は強い緊張を体に走らせた。
漆黒に近い深い黒髪をした彼の前髪は、左寄りにさりげなく分けられ、目元を邪魔することなく整然としたラインを描いている。
銀縁の眼鏡が、彼の冷ややかな眼差しに重なり、すべてを見透かすような冷淡さと理知を滲ませていた。
片桐君の兄は、かけていた眼鏡を外して、おもむろに椅子から立ち上がる。
身構える俺の近くまで歩み寄ると、彼は一度立ち止まった。
「そう怯えるな」
片桐君とはまた違う、低い声。その表情には、一切の感情の色が感じられない。
「……俺としたい話って、何ですか」
彼の足がこちらへ一歩踏み込んだのを見て、思わず同じように一歩後ずさった。
「なぜ逃げる?」
「…逆に何で逃げないと思うんですか」
片桐君の兄は、俺の返答にふっと冷笑する。
「お前は逃げない」
彼の手が、俺の腰を強引に引き寄せる。続けざまに顎を掴まれ、無理やり上を向かされた。目の前に、竦んでしまうほど冷たい瞳をした彼の顔が映る。
「なぜなら、お前はあいつを守ろうと動くからだ」
言葉を発そうとした瞬間、突然唇を奪われる。
そのまま彼の舌が口内に入ってくるのに気づき、俺は一瞬目を大きく開きながら、逃れようと彼の胸を強く押し返す。
「…っはぁ」
ようやく離れた唇に、俺は彼の腕の中から逃れられないまま、横へと顔を逸らして息を上げる。
「お前が俺の言うことを聞くのなら、あいつを家に戻してやってもいい」
「……彼はあなたの所有物じゃない」
「所有物?そんな考えをしたことは一度もない。俺はただ、生き物として当然のことをしただけだ。その結果、強い方が生き残った。それだけの話だ」
「家族を家から追いやるなんてどうかしてる…。ここまでする理由は何ですか?…彼があなたに、一体何をしたって言うんですか」
顔を彼へと向けると、そこには底の見えない黒い瞳が、黙って俺を見下ろしていた。
「いつ追い出されるか捨てられるか、そんなことも考えず、当然のように愛されてきたお前たちに、俺の気持ちなど分かるはずもない」
…っ!
突然、ギリギリと強く、片腕を彼の手に掴まれる。
俺は彼に腰を引き寄せられたまま、その痛みにきつく目を閉じる。
「俺の言うことを聞くか?」
「……っ」
「あいつが今後どうなるかは、全てお前の行動にかかっている」
片桐君とは似ても似つかない瞳が、怯えたまま抗おうとしている俺の姿を映し出す。
…何でこの人は、こんなにも冷たい、憎しみに満ちた目をしているんだろう。
気を抜けば、深い闇へと引き摺られてしまいそうなほど、彼の目は光を失ったように淀んでいた。
それに気を取られていると、彼の手に強く、片腕を引っ張られた。
「――来い」
長い廊下を歩き、いくつもある部屋のうちひとつの部屋の扉を開け入ると、彼は俺をその大きなベッドの上へと投げ入れた。
薄暗い室内で、俺はすぐに顔を上げ、シュルっとネクタイを外しながらこちらへ歩いて近付いてくる彼の姿を見る。
そして、彼の手が再び、ベッドに尻もちをつく俺の顎を掴んだ。
俺は目前にある、冷徹な彼の顔を強く睨み付けた。
「いつまでそうしていられるか、見ものだな」
彼の手が、俺に向かって伸びた。
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