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90.事情(藍沢side)

「あんま黒崎さんのこと、信用しない方がいいよ」 ふと目の前にいた、バーテンダーの彼にそう声をかけられる。 黒髪をオールバックに整えた彼は、中性的な顔立ちをしている。 「え?」 「あの人平気で嘘つくし、普段は何してるのか誰も知らないし」 「前、彼から名刺貰ったけど」 「あ。まじ?だとしたら…。まあ、それは表向きの肩書きだろうね」 良い人ではあるんだけどね。 そう話しながら、彼は静かにグラスの縁をなぞるように布を動かしている 「なあ、ちょっとさ……聞いてもいいか?」 俺は黄色からピンクへと溶け合うカクテルを見つめながら、呟くように言った。 「なに?」 「アンタ、片桐壮太郎って知ってる?」 「壮太郎?もちろん知ってるよ。でも、なんで?」 「彼のことを教えて欲しくて」 顔を上げ、きょとんとした表情を浮かべていた彼は、うーん。と言って頭を捻る。 「そう言われると、あんま知らないかもなあ」 喧嘩が強いことと、やたら頭がいいってことくらいしか。と、彼が続ける。 「あいつ、ある日突然現れたんだよ。なんかやたら強いやつがいるって俺らの間で噂になってさ。で、なんか一緒にいるうちに、何となく、皆んなあいつを慕うようになって」 なんだそれ。 カリスマオーラみたいなものか?…ますますよく分からない男だな。 「俺らとは、何かが違ってたんだ」 バーテンダーの彼は、再びグラスをゆっくりとクロスでなぞりながら話を続ける。 「なんて言えばいいのかなぁ。馬鹿やって騒いでる俺らよりいつも一歩引いてるって言うか、それがカッコつけじゃなくて、ちゃんと実力もあって。 でも、…今思えば、あいつはいつもどこかつまんなそうな顔してたかもなぁ。変に達観してるっていうのか」 あいつ、あれでまだ未成年なんだぜ。 屈託なく笑ってみせる彼の話を聞きながら、俺は視線を下に落とす。 「…彼は、一体何者なんだろうな」 彼が拭いていたグラスをそっと置く。 俺には何が何だかよく分からないが、…星七は、あいつを理解することができるのだろうか。 「さあなぁ。でも確実に、ワケありだろ」 バーテンダーの彼は、あの男と同じように、表情に暗い影を落としながら呟いた。 「…俺らみたいなのはさ、言ってしまえば、行き場のない奴らの集まりなんだよ」 行き場のない? 俺が眉を寄せたのを見て、彼は少し間を置いて続けた。 「自分を認めてくれない親とか、家に親がいないとか、まあ色々…。 もちろん、そういうわけじゃない奴らもいるよ。でも、大体皆んな、何かしらの事情を抱えてるケースが多い。きっとあいつも、何か抱えてんだろうね」 彼はそう言いながら、磨いていたグラスを棚に戻し、次のグラスを手に取った。 布越しに光を受けたガラスが、淡く輝いている。 「ま、多分どっかの金持ちの家の出なんだろーけどな」 何も言えずに黙っていると、話の空気を切り替えるようにして彼が言う。 「前あいつ、譜面見ずにすらすらピアノ弾いてたし」 さり気なく笑って話す彼。 その直後、彼のグラスを拭く手が不自然に止まった気がして、俺は顔を上げた。 「……そういえば。黒崎さんがいつの間にか俺らといるようになったのも、壮太郎が現れた時期とほぼ同じだったような」 「え?」 聞き返すと、彼は「いや、こっちの話」とだけ言って、来店した客の元へと歩いていった。 行き場のない、何かしらの事情を抱えた……か。 あの男の“事情”とは、さっきのあの冷徹そうな人物のことだろうか。 はぁと頭を抱えながら、俺は重い息を吐く。 (星七…まさかおかしな事になってないだろうな) 時計を見ると、さっきから分針は大して進んでいないはずなのに、妙に遅く感じる。 胸の奥で、鼓動が少しずつ速まっていく。 あの男に託せば、お前は幸せになると思っていたが。もしかしたら、それは俺の判断ミスだったんだろうか。 ……だとしたら。いや、そうじゃなくても。 やっぱり、こんなところで飲んでる場合じゃない―― 俺は席を立ち上がり、急いで店を出る。 夜の街に、街灯に照らされた歩道の影が揺れている。 駆け出そうとした瞬間、藍沢さん、と声をかけられる。 振り向くと、スマホを耳からずらした黒ずくめの男が、店の前ですました顔でこちらを見据えていた。 彼の前には、タクシーが停まっていた。 「乗っていってください」 その姿に、俺は驚きと疑いの色を隠せない。 「道の混雑状況から見て、あの家にすぐ着くはずです」 何だこの男。 最初から俺がこう動くことを分かっていたかのように。 ……いや、違う。そうじゃない。 “もしかしてわざと、俺を星七から(あの場所から)引き離した?” だけど、何で…。 電話口で誰かと神妙な面持ちで話す男の姿を不審に見つめながら、俺は停められていたタクシーに乗り込み、星七の元へと向かった。

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