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92.朧気な姿(片桐side)

冷たい風は、海の匂いと一緒に、肌をなでるように吹きつける。 街灯も届かない、海沿いの草地に、一人。 遠くで小さく波の音が繰り返す以外、何の音もない。 真っ暗な空に浮かぶ妙に明るい月が、暗闇に隠れようとする俺の姿を、まるで「逃げるな」と言うように、お構い無しに照らし出す。 いつも、俺は大切なものを守れない。 “壮太郎…ごめんね。ずっと一緒に居られなくて” “いいか、よく聞け。あの人たちは“お前そのもの”が好きなわけじゃない。欲しかったのは、使える子ども。――ただそれだけだ” 蘇る彼らの言葉は、今まで生きていて一度だって、忘れたりしたことはなかった―― ザ…っと微かな踏みしめるような足音が響き、背後に歩みよる誰かの気配を感じる。 「随分探しましたよ」 一定の距離を保った場所から、彼が俺にそう話しかけた。 俺は振り返らずに、沈黙を貫いた。 「こんなところで、燻ってる場合ですか。…片桐さん」 「……」 「頭のいいあなたなら、もう何をすべきか分かってるはずです。あなたにとっては、変わるチャンスでもある」 そう語りかけながら、彼は俺の座る横へと静かに立った。スラリと伸びた足が、視界の隅に映る。 「大学へ再び行こうと思ったのは? 一切したがろうとしなかったアルバイトを、始めた理由は? 周りの意向で勝手に決まった、でも特に言及もしなかった、リーダーという名の肩書きをわざわざ降りようと思ったのは何故ですか?」 その口ぶりは、いつもの冗談口調ではなかった。俺は視線だけを彼に向けた。 「彼に、少しでも近づきたかったからでしょう?」 いつも浮かべている笑顔とは違う笑みを浮かべた黒崎が、至極穏やかな表情で、地べたに座る俺を見つめていた。 「…やっと、見つけたんじゃないんですか。心から夢中になれるものを。大切だと思える存在を」 俺は彼から視線を逸らし、暗い空の下にある、闇のように深く不気味な色をした海へと目を移した。 境も終わりもないその色は、視線の先すべてを飲み込み、どこまで歩いても辿り着けない場所へと続いているかのようだった。 「……一々行動を“監視”してくるな」 「あ。やっぱりバレてました?」 黒崎はいつも通り、ワザとらしく声を出して笑う。 しかし、暗闇の中、全身を黒い衣服で身にまとった彼の姿は夜に溶け込み、その姿は朧気にしか瞳に映らない。 「あなたがどこまで知ってるのか分かりませんが…誤解しないでくださいね」 立ち去ろうとした彼が、足を止めて言う。 「俺はあなたの味方でも無ければ、あなたの義理のお兄さんの味方でもありません」 黒崎はそして、何かを伝えるように、目線だけを俺に向けた。 彼はその後、路肩に停めていたバイクに跨ると、赤いテールランプを残して、夜道を颯爽と走り去っていった。

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