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93.夜道
邸宅を出て門を抜けると、外はもう真っ暗だった。右か左か、どっちから来たか分からないままもつれそうになる足を動かし、そのまま駆け抜けようとする。
―と、突然伸びてきた手に、片腕を強く掴まれた。
「ひっ…」
肩が跳ね、思わず全身が小さく震えた。振り返った先には、軽く息を切らしたような姿をした藍沢がいた。
「星七…良かった」
ほっとしたような幼馴染の姿が目に映る。
「黒崎さんに会って、一度ここを離れてたんだけど…どうしても、このままお前を放って帰るなんてできなくて」
お前が出てきてよかった。
藍沢はそう言って、よく慣れ親しんだ表情を浮かべて俺を見た。
「早く、帰ろう」
俺は彼の服の袖を引っ張りながら言う。
「彼が追いかけてくるかもしれない、だから早く」
言いながら進めようとした足が、なぜか動かない。
へなへなとその場に力が抜け落ちるように座り込む俺を、藍沢が少々驚いた顔で見る。
「どうした?」
「なんか、体の力が急に抜けて…」
藍沢は地面に座り込む俺の姿に、一瞬顔を顰めた。そして、尻もちをつく俺の前で屈むと、背中を向けた。
「ほら」
「え?」
「早く乗れよ」
「い、いいって。少し手貸してくれればそれで」
「何恥ずかしがってんだよ。早くしろ」
俺はしばし目の前にある、優しい彼の背中を見つめた。
そっと手をかけると、背に俺を抱えたまま、藍沢がゆっくりと体を起こして立ち上がる。
――しかし、高い位置から見えた景色に、抱えられてすぐ強い羞恥心に襲われる。
「……やっぱ恥ずかしい。降ろして」
「だろうな」
暗い夜道を歩きながら、藍沢が俺を抱えて微かに笑うのがわかる。
こいつ分かってたな…。
「安心しろ。お前童顔だから、見られたとしても“まさかお前が成人してるとは”誰も思わないから」
「~やっぱ降ろしてって!」
藍沢の背中で喚きながら、俺はいつも通りの彼の雰囲気に、掻き乱されていた心が徐々に落ち着きを取り戻していくのを感じた。
なんだか、昔を思い出す。
過去に、事故を機に家を飛び出した俺を、一晩中探してくれていた藍沢のことを…。
「なあ。星七」
ゆったりとした足取りで歩く藍沢の声が、いつもより近い距離で耳に届いた。
「お前、あいつが好きか」
「……。なんで?」
彼の肩に腕を回しながら、静かに聞き返す。
さっきの出来事から、未だ自分の手はわずかに震えているような気がした。
「…あの男は、きっと俺たちの手に負えるような奴じゃない」
極めて穏やかな彼の声に、俺は一瞬瞳を震わせた。
視線を下に向かってそっと落とす。
「最初、お礼を言いに俺たちの大学まで来たあいつを見たとき。彼になら、お前を任せられるかもしれないと思った」
「……」
「それはただの直感だったけど、その時は本当に、そう思ってたんだ。でも、俺のその直感は、どうやら間違ってたみたいだ」
藍沢が足を止める。紡がれようとしている言葉を予想して、俺はぎゅっと手を握った。
「……あいつじゃ、お前は幸せになれない」
――ズキリ。彼の台詞に、胸の奥がナイフで突き刺されたように、激しく痛んだ。
「もう、あいつと会うな」
「やだよ。…今更、そんなこと言われたって」
「なら、何であいつはここにいないんだ」
「……それは」
口を開いてすぐ、目線を泳がす。
「何で、今あいつはお前の傍にいない?」
黙り込む俺に向かって、藍沢が再び問いかける。
俺は唇を小さく噛みながら、ほのかに潤む瞳に気づかないふりをする。
「それは……だって。片桐君あの人に色々言われてたし、俺も拘束されてたし…。彼にだって、辛くなることだってあるよ。どうにもならないことだって。仕方ないじゃん」
「そういうことを言ってんじゃねえ」
街灯の下、藍沢が背中からそっと俺を降ろす。
足元に確かな地面を感じながら、俺は彼の眼鏡の奥にある真剣な瞳を見上げた。
けれど次の瞬間、その瞳が驚きに揺れ、大きく見開かれるのを目にする。
「お前…」
…?急にどうしたんだろう。
首を傾げる俺の片襟を藍沢が掴む。
「なんだ、この傷跡……」
「傷跡?」
そう自分で言ったあと、すぐに先ほどの強い痛みを頭に思い出す。
「あ、」
思わず首を片手で隠す俺を、怒りとも悲しみともつかない表情で、藍沢が見つめていた。
俺は彼からの視線を受けながら、軽く口元を緩め、不安定に瞳を彷徨わせる。
「……これは、別に」
一瞬で、さっきの出来事が蘇った。胸が跳ね、荒い鼓動が全身を駆け巡る。
「大したことないから。ちょっと触られたくらいだし…間一髪で助かった、って言うか。……だから、全然大丈夫――」
そう話しながら、勝手に瞳に涙が浮かんでいった。
それに気付いてか気付いていないのか、藍沢が無言でスっと目の前に左手を差し出してきた。
「――帰ろう」
彼は一言、ただそれだけを告げた。
俺は彼の手に、まだ少しだけ震えていた自分の右手を添えた。
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