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103.彼の兄
藍沢と別れ、家の門を開けようとしたとき、スマホの着信音が鳴る。
片桐君からだ…!
「もしもし!」
すぐに通話ボタンを押して耳に当てると、もしもし、星七さん?といういつも通りの片桐君の声が聞こえた。
「無事なの?片桐君」
「ええ、もちろん。大したことなかったですよ」
それは強がりなのか、本当にそうなのか、電話越しからだけでは、彼の本音がよく分からなかった。
「怪我は?今どこ…?俺そっちまで今から」
「――大丈夫です。ほんとに」
言葉を遮るようにして、片桐君が言う。
「それより、星七さんは何もありませんでした?」
「何も無いよ…。……片桐君が心配だよ」
「優しいですね、星七さん」
「誰だって心配するよ!こんなの」
ほんの少し眉を寄せて言うと、電話口に片桐君がふっと笑うのが分かる。
「すみません。なんか嬉しくて」
え……?
「星七さんの愛情を感じて」
スマホを通じて耳に届く落ち着いた彼の声に、胸が締め付けられる。
「あ…当たり前じゃん。俺たち、付き…合ってるんだし」
気恥しさを覚えながらそう伝えたとき、「あの…」と言う遠慮がちな片桐君の声が聞こえ、俺は耳をすませる。
「え?なに?」
しかし、いくら待ってみても、彼からの続きの言葉は聞こえてこない。
「どうしたの?片桐君。……もしかして、やっぱり怪我してるんじゃ――」
「いえ、そうじゃなくて」
「え?」
「………。いえ、……何でもないんです」
尋ねると、片桐君は濁すようにしてそう言った。
彼との通話を終え、俺は家の門を開けながら、唇をきゅっと締めた。
……もう、許せない……。
電話の履歴を開き、彼と思われる連絡先をタップする。
スマホを耳に当て、数回コール音を聞く。そのうち、通話の繋がる音がした。
「何だ」
「…話があります。明日、会ってもらえませんか」
通話の向こうから、微かに笑う声が聞こえる。
「いいだろう」
「ただし、場所は決めさせてください。あの家にはもう行きません」
「ふ、なんだ?また俺に何かされると思って怖がっているのか」
冷笑する彼の話を黙って聞く。
「…まあいい。明日の午後なら少々時間はとれる」
「なら明日2時に、S大近くにある喫茶店までお願いします」
「分かった」
彼の返事を聞いてから、通話を切った。
***
約束した時間に指定した喫茶店まで赴くと、テラス席にひとり足を組んで座る、スーツを着た彼の後ろ姿が見えた。
「どうも」
彼の前まで足を運ぶと、短くそう挨拶する。
無機質な眼鏡の向こう側から、無感情な瞳がちらとこちらを向く。
「5分の遅刻だ。お前、俺が暇だとでも思っているのか」
何も言わず、向かい側の椅子を引いて座ると、彼の眉間にシワが寄せられた気がした。
「感じ悪いな。お前いつもそうなのか」
「だったら何なんですか?」
眼鏡をかけた彼の顔を軽く睨むと、彼はしばし俺を見たあと、スっと目を逸らしてコーヒーを口にした。
「…話してもいいですか」
カフェラテを注文してから、俺はそう口を開く。
「勝手にしろ」
「……じゃあ話します。片桐君に、…彼に手出すの、もうやめてください」
膝に置いた自分の手は、彼に対する怒りからか、この間のことの恐怖からか、わずかに震えていた。
正面に座る彼は、俺から視線を少し逸らしたまま、黙っている。
「あなたは、彼を家から追い出したんですよね。…じゃあもういいじゃないですか。何でその上、手にかけようとまでするんですか。……あなたが考えていることは、理解できません」
彼はコーヒーを机に置き、依然として俺を見ないまま言った。
「それはつまり、お前は俺のものになるということか」
しかし、そう言い終えた瞬間に、彼の冷徹な瞳が俺をしかと捉えた。片桐君とはまた違うオーラに圧倒されるのを感じながら、俺は静かに唾を飲み込む。
「…あなたが彼に手を出さない条件に、俺が彼から離れる…。本当にその条件、守ってくれるんですか」
「ああ、もちろん」
「でも、彼と出くわした時、彼は既にあなたに手をかけられてた。…俺が離れる程度で、本当に彼への行為をやめてくれるかどうかは、信じられません」
と、カフェラテに添えていた手を、突然目の前に座る彼に取られる。そして、
「やめる。お前が本当に俺のものになるなら」
やけに真剣な瞳で見つめられた気がして、少し動揺する。
何だ…この人。
「手、離してください」
彼の手から逃れると、ほんの少し彼の瞳が下に伏せられた気がした。
「――副社長。そろそろ」
離れた場所に立っていた彼の秘書らしき男性が、控えめに腕時計に目をやり、指先で文字盤を示すようにした。
彼は無言で椅子を引いて立ち上がる。
「また、会わないか」
視線を上げた先、彼の目が俺を捉えて言った。
「承諾するなら、あいつへの行為は止めてやってもいい。条件を緩和してやろう」
え……。
でもそれって…
もしかしなくても、片桐君に隠れて、この人と会うってこと…だよね。
いや、今も会ってるけど……。
だって、どうしても許せなかった。彼にひどい仕打ちばかりするこの人が。
「また連絡する」
「あっ、ちょっと待ってください!俺会うなんて一言も」
慌ててそう言い立ち上がったが、片桐君の兄は秘書と思われる男性とともに、喫茶店から足早に立ち去っていってしまった。
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