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105.空虚な目(藍沢side)

“話したいことがある” 星七と会った数日後。 以前にも届いたことのある似たようなメッセージを、俺は彼から受け取る。 指定された場所は、以前黒崎という男に連れていかれたバーだった。 夜、店のドアを開けると、薄暗い店内の灯りの下、片桐壮太郎と思われる男が、カウンター席に腰かけ、俺を待っていた。 店内には他の客はおらず、どうやら彼1人のようだった。 前いたバーテンダーの彼も、今はいないようだった。 彼の隣に歩み寄ると、片桐壮太郎が軽くこちらへ振り返る。 「ありがとうございます。来てくれて」 茶髪の頭、耳にピアスをつけた彼は、俺の顔は見ずにそう言った。彼は黒のコートを着たまま、片手に酒を飲んでいるようだった。 「あなたとこうして話すのも、もう何度目ですかね」 わずかに視線を落としながら話すいやに落ち着いたその姿は、彼が歳下であるということを思わず忘れる。 彼の派手な風貌がそう錯覚させるのか、それとも、彼が歩んできた人生が、彼を妙に大人びて見せるのだろうか。 「…なんだよ。俺に話って」 俺は目の前にいたバーテンダーの男に酒を注文した後に言う。 片桐壮太郎は、耳のピアスを光らせながら、顔を俯かせ、何か言い淀んでいるように見えた。 「あなたにお願いがあって」 お願い……? なぜか、その瞬間嫌な予感がした。 「俺、もうじきここを発たなきゃいけません」 彼は顔色を変えずに、静かに言った。 発つ…? 「なんだ突然……どういう意味だ」 俺は話しながら、頭の中で星七のことを思い出す。 胸の辺りがぎゅっと誰かに握られているかのような息苦しさを感じる。 「家の事情で、海外に行かないといけなくて」 「……なんだそれ」 何、言ってるんだ、こいつ……。 「まるでドラマだな」 軽く笑って言った俺の台詞に、隣に座る男は、うんともすんとも反応を示すことなく、一定の場所をただじっと見つめている。 “俺たちが想像してる以上に、もしかしたら彼は、色んなことを抱えてるのかもしれない…” 彼の姿に、星七の言葉が蘇る。 でも、だとしても。 「その家の事情ってのは、変更が効かないのか」 「……」 「もっとあるだろ。何も海外に行かなくたって」 「……どうしても行かなきゃならないんです」 伏せる彼のグラスを握る手に、力が込められた気がした。 「待てよ、あの兄は?あの男を野放しで行くっていうのか」 「――兄の狙いは最初から俺です。だから、彼にそこまで酷いことはしないはずです」 それに…。片桐壮太郎が言う。 「兄は多分、……星七さんのことが好きなんで」 冷静に話す男の様子を見ながら、俺は目を泳がせた。 あの兄が星七を好き? つーか、そこまで酷いことはって。 あの黒崎とかいう男の時も思ったけど、こいつら揃いも揃って頭沸いてんだろ…… 「行くなよ、……守れよ。お前星七の恋人だろ?」 「だから守ろうとしてる」 「――どこがだよ!?」 立ち上がり、彼の胸ぐらを咄嗟に掴む。 片桐壮太郎は振り払うことなく、掴まれた勢いのままゆっくりと立ち上がる。 彼は、顔を伏せながら押し殺したような低い声で言い放った。 「…………あんたには分からない、 ……あんたみたいな人間には……。 俺の意志は、変わらない」 その言葉に、思わず目の前の男を殴りそうになる右手の拳を強く強く握って止める。 こんなのでも星七の恋人だ。あいつの大切な人なんだろう。 だけど、いくら何でも、こんなのあんまりだ。 「俺に話っていうのはつまり、お前がいない間、あいつを見守ってろってことか?俺を盾に使おうって?」 俺は彼の胸ぐらを掴んだまま、彼を激しく睨みつけながら言う。 片桐壮太郎は変わらず顔を俯かせたまま、沈黙を貫いている。そうだと、俺に示すかのように。 「ふざけんな……。ふざけんなよ、お前」 彼に掴んでいた手を離される。 片桐壮太郎はその場に立ったまま話を続ける。 「あなたは未だ彼が好きで、元恋人でもある。彼に近づいて欲しくない。…だけど、あなたは星七さんに無理強いしたりしない」 「……」 男の鋭い瞳が、一瞬俺をとらえる。 「――あなたを信用しています」 彼はそう告げると、ドアを開け、店を出ていく。 「待て!ひとつ、聞かせてくれ」 彼の後を追い店を出ると、俺は男に声をかけた。 「お前は俺を信じてるみたいだが…… 俺たちは一度、付き合った仲だ。そばにいて、何も起こらないとは言いきれない」 「……」 「…俺がもし、お前の信用を裏切ったら。俺がもし、星七に“手を出したら”。そのときは、どうするつもりだ」 すると、背を向けて立っていた片桐壮太郎は踵を返し、俺のそばまで近付いた。そして、 「裏切ったら……そうですね。 ―――殺しますよ」 ぞくり、背筋が震え上がる視線に見つめられ、思わず息をのむ。 彼の瞳は、空虚で、そこには何も映してないように見えた。 淡々とした声には激情の気配すらなく、それが余計に恐ろしかった。 「なんて、冗談ですよ」 男は俺を見ながら、ふっと軽く笑った。 冗談、本当にそうだろうか。 俺は以前から、彼に言い様のない違和感を感じている。 ……こんな笑い方する奴だっただろうか。 「彼のこと、頼みますね」 男はそう言い残すと、夜の街をひとり、静かに立ち去って行った。

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