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113.優しい笑み

授業のため講義室に着席すると、友達であり、元恋人でもある彼は俺の隣に腰掛け、俺を見て慰めるように口角を上げる。 「分かってると思うけど。さっきの、気にするなよ」 昔馴染みの優しい彼の表情に、不覚にもドキリとした。 藍沢はそれだけ告げると、入ってきた教授に目を向け、前を向いた。 俺は彼の横顔を盗み見ながら、なぜか彼と付き合っていた頃のことを頭に思い出していた。 … 誰もいない、オレンジ色の夕焼けが窓から見える空き教室で、服をまさぐってくる彼の手を止める。 『藍沢…、やだって』 背にロッカーを当てながら、俺は言う。 『誰も来ないって』 『そんなわけ……あ、ほら、今音がした』 顔を背ける俺に藍沢は顔を近づけ唇を塞いでくる。 巧みな舌に煽られて、徐々に体の力が抜けていく。 『立ってる』 『…普通に触ってくるな』 制す俺の手を当然のように振りほどき、俺の顔色を伺いながら彼は優しい刺激を与えてくる。 『…っん』 俺はそれに目を瞑り見ないふりをする。 行為、そして彼の気持ちから、…目を背けるように。 だけど、そんな関係が約3年ほど続いた、ある大学入学直前の日。 彼の気持ちに答えられないまま期待だけさせていることに苦しさを感じた俺は、彼を俺から解放するため、彼を振った。 彼は友達が多かったし、容姿も良かったため、好きだと言っている女の子がいたことも知っている。 誰かに、彼を早く連れ出してあげて欲しいと思った。 …彼をこのまま、俺の暗い世界に閉じ込めたくなかった。 報われて欲しかった。 俺じゃない別の好きな人と、幸せに笑って欲しいと。 …なのに。 彼はまだ、俺の隣にいる。 俺が既に誰かのものになっていると分かっていても、あの頃と変わらない優しい笑みで、…俺を見てくる。 なぜ、……俺は片桐君でないと駄目なのか。 なぜ、目の前にいる彼は、こんなにも振り回してばかりの最低な俺に…未だ優しいのか。 自分では正しいことをしたと思っていたのに、俺はまた彼を傷付けている。 もしかしたら、彼は俺の知らないところで、その涼し気なポーカーフェイスを崩して、何度も泣いていたのかもしれない。 何度も、心を痛めていたのかもしれない。 ……なんで、俺は片桐君のことがこんなにも好きなんだろう。なんで彼でなきゃ、いけないんだろう。 幾度も、同じ考えがループする。 絡み合った糸が何重にも縺れたまま、それは解ける予兆すら感じさせない。 それでも、俺はこれからもきっと、隣にいる彼を見殺しにしたまま…力強い瞳をした彼の元へと足を運ばせる。 彼を傷つけていると分かっていても、俺は多分一生、片桐君のことを想い続ける。 そう……傍にいる彼の気持ちに見ないふりをしながら、俺は…また―― 迫る暗雲に、“彼”が動こうとするその気配に、幸せをすっかり錯覚した俺は、幾度となく見えていたはずの彼の兆候を忘れ、一向に気付こうとはしない。 …既に、同じ輪廻に足を踏み入れようとしていることに、愚かな俺はまだ――気付かない。

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