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115.朝の電話

ある冬の朝。 俺は、彼からの電話で目を覚ます。 「片桐君?」 俺は目を擦りながら、スマホをとって耳に当てる。 「星七さん」 朝早くから聞こえる彼の声は、相変わらず落ち着いていて、優しくて、程よい胸の高鳴りを感じさせる。 「寝てました?」 「うん、…だってまだ朝の6時だよ?」 ベッドの上から身を乗り出し、カーテンを開けながら俺は言う。 「大学、今日は午前からじゃないんですか?」 「うん。片桐君は午前授業あるの?」 「…そうですね」 言って、片桐君は押し黙った。 「今、どこにいるの?」 何気なく、そう聞いた。 すると、片桐君はまた、少し黙った。 「今、大学着いて歩いてるところ」 そっか。俺はそう返した。 「星七さん」 「うん?」 「電車、気を付けて。痴漢されないように」 ……心配性だなぁ。 「大丈夫だよ。それに、もう触られてもちゃんと抗うよ」 自分のためでもあるけど、片桐君のためにも。 「そうですか。でもなるべく、藍沢さんと乗るようにしてください」 突然そんなことを言う片桐君に、俺は一瞬だけ、嫌な胸の音が鳴るのを感じる。 …なんで藍沢と、なんて言うんだろうか。 「片桐君……もしかしてどこか行くの?」 「そうですね……。行くかもしれません」 「どこ?」 俺の質問に、片桐君は長い長い沈黙を貫いた。 「……どこ、ですかね」 「え?」 電話口で、片桐君が微かに笑う声が聞こえる。 「星七さん、浮気しないでくださいね」 「……何でそんなこと言うの?」 まるで、しばらく離れるみたいな……そんな言い方。 俺はすっかり目が覚めた頭で、ぎゅっとスマホを握り締める。 彼が、どこかに行ってしまう―― 何も聞いていないのに、会話のやり取りから、瞬時にそう悟っている自分がいた。 「片桐君……いま、どこにいるの?」 「……」 「…あ、そうだ、大学ってさっき言ってたよね」 「……」 「嘘、つかないよね。付いたら別れるよ、俺」 「……別れないで」 え……… 「俺、今日誕生日なんです」 俺は彼の話に必死に耳を傾ける。 愚かな自分に、徐々に気付いていくかのように、俺は時折様子のおかしかった彼を頭に思い出す。 予兆は確かにあった。 ……あったのに。分かっていたのに。 「…誕生日?」 「はい」 「そうなんだ……。なら、今日会おうよ」 俺は瞳に浮ぶ涙に、気づいてないフリをして、通話を続ける。 「おめでとうって、言ってくれないんですか?」 彼の声がとても遠いところから聞こえる気がして、目元の涙を手で拭った。 「い、言いたいよ、言いたいよ。だから会いたいって言って…」 そのとき、無機質なアナウンスが耳に届いた。 それだけで、もう彼がどこにいるかわかってしまった。 なんで…… 「かたぎりく」 「――待ってて欲しい」 遮られ言われたそのフレーズに、不意に、あの夜の彼の言葉を思い出す。 “だからもう少しだけ、……待っていて欲しい” 俺は口元を小刻みに震わせながら、は、と笑った。 分からない…… 分からないよ、あれだけじゃ、何も…。 片桐君が考えていることに、俺はすぐに気付けない。 気付けない………。 「………いやだ」 ――行ってほしくない。 どこにも。……どこにも、――どこにも。 俺は自室のベッドの上に座ったまま、ぼたぼたと涙を流す。 あのとき、俺が気付いていれば。 あのとき、俺が彼の心の動きを悟っていれば。 ……分かっていれば、 もしかしたら今日という日を、…迎えなくて済んだのかもしれない。 涙を流す悲しい結末に、ならなかったのかもしれない。 「……いやだ、いやだよ、片桐君」 俺は彼に泣きながら言う。 けれど、本当はもう分かっているんだ。 彼は、俺がなんと言おうと、――行くのだと。 ……俺の傍から、彼はいなくなってしまうのだと。 「……たった2年です」 いつもと変わらない穏やかな口調で話す彼の声に、涙腺が壊れてしまったかのように泣けた。 優しい彼の声が聞こえる度、大好きで、ときめくのに、しばらく会えないかと思うと、苦しくて、彼の声を聞きたくないとも思った。 「忙しくなるかもしれないから、連絡は……あまり取れないかもしれない」 「…っ…」 「それでも、待っていて欲しい……俺を」 ――俺のことを。 プツッと無機質な音がして、通話が切れる。 俺は聞こえなくなった彼の声に、俺の元から離れてどこかへ行ってしまう彼に、ベッドに座り込んだまま頭を下げ、布団に顔を押し付けながら号泣した。 …なんで、見抜けなかったんだろう。 なんで分からなかったんだろう。 気付ける機会はいくらでもあった。 確かにあった…、…あったのに…… 彼の優しい笑顔に、騙された。 悲しみで胸が痛くて、張り裂けそうだった。 …片桐君、片桐君、片桐くん…… 彼の声が何度も蘇って、涙が止まることなんてあるんだろうかと思った。 …沈んでいく。 暗くて深い、海の中へ―― 突き落とされる。 彼の手が、離れていく。 塞がれていく。 確かに見えていた色付いていた世界が。 失われていく、 彼が離れるとともに、見えていた世界が、途端に色褪せていく―― 好きだった…… 彼が。 力強い彼の瞳が。彼の腕が。 優しい彼の表情が。少し意地悪な彼の表情が。 ……全部、だいすきだった……っ… 俺は途切れない涙を何度も拭った。 俺は後に、涙を止めるため、気を逸らすため、逃避するように、カーテンの向こう、窓の向こうにある、曇った景色を見つめた。 明日なんて、どこにも無いような気がした。 気を逸らそうとしたが、空を見ても、遠くの山を見ても、走る電車を見ても、逸らせなかった。 俺はまた涙を手で拭った。 ……大丈夫。彼は、死んだわけじゃない。 亡くなったわけじゃない。彼はまだ生きてる。 ただ少し、遠いところに行ってしまっただけ。 ただ、…それだけ。 ――それだけだから。 朝から昼になり、夜になり、スマホの着信音が鳴り響く。 ドアの向こうから、親の呼び声が聞こえる。 俺はその日、部屋から一歩も出ることができなかった。

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