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120.もがく
いつも通り食事をし終わり、ナイフとフォークを皿に置く。
俺は些かぼうっとした頭で目線を下へとさげる。
「美味しくなかったか?」
正面に腰かける彼の呼びかけに、俺は我に返るように、いえ、と言って首を横に振った。
「美味しかったです。すごく」
笑ってそう話すと、正面に座る玲司さんから注がれる視線を感じた。
――食後、レストランの外へ出ると、冷えた空気が頬を撫でた。
柵の向こうに広がる景色へと何気なく視線を向けると、見渡す限りの街の灯りが、宝石のように瞬いていた。
「わぁ…」
思わずこぼれた声。玲司さんは何も言わず、俺の隣に立つ。
寒さのせいか、指先が少し震えていた。
自然と、あの日彼と見た、夜景を思い出した。
―『星七さん』
確かにあのとき、…彼は、俺の隣にいた。
「気に入ったか」
隣に立つ玲司さんは、薄らと笑んで俺を見る。俺はそれに少し戸惑いながら、頭を頷かせた。
「……どうして、俺にずっと優しいんですか?」
夜景から目線を彼へと移して、俺はぎこちなく尋ねる。
玲司さんはコートの襟を冬の風で揺らしながら、俺から夜景へと視線を移す。
「さあな。自分でも、…よく分からない」
玲司さんは、俺から目を逸らしたままそう答えた。
レストランの下には、緩やかな坂道が続いている。
街の賑わいから離れた丘の中腹からは、まるで星空が地上に降りたような光景が見渡せた。
「……あの。なんで片桐君のこと、そんなに目の敵にするんですか?」
ふとずっと気にかかっていたことが、無意識に口をついて出た。
あまりに綺麗な夜景を見ていたために、気が緩んだのだろうか。
彼はしばらくの間、口を開かなかった。
…やっぱり、踏み込みすぎただろうか。
「…俺は、親の顔を知らない」
そう思っていると――ぽつり、玲司さんがそう告げる。
その微動だにしない彼の表情は、過去に夜景を一緒に見た彼のものと、よく似ていた。
あのときの彼も、こんなふうに、どこか遠くを見つめていた……。
「親の名前も、声も、何も」
玲司さんは少しだけ顔を伏せる。そして、冷たい空気の中で息を吸い込み、静かに言葉を吐き出した。
「……捨てられたんだ。俺は生まれてすぐに」
俺は、無機質な眼鏡をかけた彼の横顔を見ながら、瞳を大きく震わせた。
心臓が、鋭い痛みに鷲掴みにされるように締め付けられた。
俺は、スローモーションのようにゆっくりとした動きで、顔の向きを夜景へと戻した。
「施設での生活を経たあと、俺は今の家に引き取られた。やっと自分の居場所を見つけられたと、そう思っていた」
「……」
「だが、その後間もなくしてすぐ“彼”が、家にやってきた。…あいつは、俺の成してきたことをいつも難なく、軽々と飛び越えていった」
玲司さんは変わらず、壮大な夜景に目を向けていた。
俺は、そんな彼を見ながら、頭の中で必死に彼らの姿を想像した。
彼らはそのとき、一体何を考え、何を思っていたのだろうか、と…。
……分かっていた。
やがて、玲司さんがつぶやくように言う。
「自分が、彼のように特別秀でた人間ではないことは。それでも、彼を妬まずにはいられなかった。…俺は恐れていたんだろう。彼に、居場所を取られることに。父たちに、またそのうち…捨てられるんじゃないかと」
玲司さんは、ほんの少し哀しげに笑った。
「………どうすれば、良かったんだろうな」
俺は彼の告白に、あの日のように、なんとリアクションすればいいのか分からない。
ただ、目元が潤むのを感じながら、俺は目の前に広がる夜景を、懸命に見つめ続けた。
……なんでこんなに、上手くいかないんだろう。
彼も、俺も、ただ必死に生きているだけなのに。
…なんでこんなに、胸が苦しいんだろう。
涙が込み上げてくるんだろう。
どうして……彼は今ここに、いないんだろう。
深く、深く、沈んでいく。
底のない涙でできた海の中へ。
冷たい場所へ……
哀しくて、寂しくて、心が、押し潰されそうだった。
彼が、俺に向かって優しく微笑む。
彼のくれた言葉が、何度も頭の中で再生される。
俺は口を開いた途端、入ってくる塩水にむせ返る。
俺は体中を動かして、必死にもがく。
しかし、もがけばもがくほど、徐々に息がしづらくなっていった――
『星七』
旧友の影が、俺に向かって微笑む。
ああ…、恨んでるのか?お前…やっぱり俺のこと。
事故のこと、やっぱりまだ、許してくれてないのか?どうしたら許してくれる?
あとどれだけ苦しめば、お前は俺を許してくれる…?
『……星七』
親友の顔が、ふと“彼”の顔へと変わる。
いつも傍にいた彼は、俺を悲しげな顔で見つめる。
そのうち、彼にそっと手を差し出される。
俺はそれを、その手を――
「……はぁっ」
深夜、夢の中から目を覚ます。
枕元に置かれたスマホに手を伸ばす。
胸にまだ僅かに残る、期待を抱いて。
けれど――そこに彼からの返信はなかった。
長らく沈んだ水中で、俺は疲れ果て、もがくことを諦めるようにして、静かにそっと……目を閉じた。
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