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137.別れ(片桐side)

耳に当てたスマホから、通話の切れた音がする。 ―『………さようなら、…片桐君』 彼は泣いていた。 俺が、…泣かせた。 俺は手に持っていたスマホを力任せに投げようとして、止める。 ……間違っていたというのか。 彼のためにやってきたつもりだったことが、間違っていたと、…そう…。 彼にもう一度、電話をかける。しかし、またブロックしたのか、繋がらない。 …何だよ… 何でだよ……… 何でだよッ!! なんで……俺じゃなくて、あの男を選ぶんだよ… …俺が好きなくせに……。 「あ!ちょっと片桐さん!?」 社長室を出て、車に乗り、彼のマンションまで走る。車から降りてすぐ、彼の部屋のインターホンを押して鳴らす。 しかし、案の定出てこない。 ……このまま終わってたまるか…。 「おい開けろ。聞こえてるんだろ、高みの見物のつもりか」 すると、インターホン越しに彼の声が聞こえた。 「困るよ… 何で来るの」 「開けろ。こんなの納得できない、電話1本で終わらすつもりか。非常識だ」 「……」 「分かったよ。手を出さない。触らない。話だけしよう」 「……嘘だ」 「嘘じゃない」 しばらく待っていると、オートロックのドアが開く。 マンションの中に入り、エレベーターをあがる。 彼の部屋前まで辿り着くと、チャイムを鳴らした。 「…出られないってば」 「往生際悪いな。ここまで通したんだろ、早く開けろ!」 ガチャリとドアが開く。 しかし、チェーンのついたそれに強く眉を寄せる。 「開けろって言ってるのが分かんねーのか」 彼は怯えた表情で俺を見ている。 「怒らないで、…大きい声出さないで」 「もっと騒がしくしたっていいんだぜ」 彼が恐る恐るチェーンを外す仕草をする。 チェーンが外れたのを確認した瞬間、ぐっとドアを外に向かって力任せに開ける。 濡れた瞳を大きくさせて、スーツ姿の彼が俺を見上げる。 「……片桐くん…」 1歩踏み込むと、待って!と彼が言う。 「なんだよ」 彼は顔を俯かせながら口元を震わせている。 「…触らないって約束、守ってくれるよね」 「……」 「守ってくれるなら、部屋に通すよ。話…するよ」 俺はそれに、はっと笑い、目の前にある彼の手首を掴んで部屋に足を踏み入れる。 ドアががちゃんと背後で閉まる音を聞きながら、そのまま彼の体を抱き寄せキスをする。 星七さんが至近距離で大きく目を開き、驚いた表情をした。 「……っは」 唇が離れると、彼は俺の胸を押し、部屋の中へ逃げようとする。 「…あっ!」 しかし、足をもつれさせた彼が廊下の床に倒れ込む。すぐにハッとするようにして、星七さんが上に覆い被さる俺の方へと振り返った。 「……手出さないって言ったじゃん」 「あんなの嘘に決まってるだろ」 吐き捨てるように言うと、冷たい廊下の床に横たわる彼の瞳に、涙が溜まる。 「…嘘ついたんだ」 「そうでもしないと開けないだろ」 「……勝手だよ……片桐君…」 彼の瞳から涙が落ちていく。 「…何で泣くんだよ」 彼は仰向けに横たわったまま、両手で目元を抑えている。 「……分からない…」 泣きながら彼が言う。 「どうしたらいいのか、…分からない……」 「あいつと別れればいい。それだけのことだ」 俺の言葉を受けた彼は、簡単に言うね…。と言って、軽く口端を上げた。 「ああ、簡単さ。あの男を振るだけの話だ。あいつに悪いと思ってるのかもしれないが、そんなの仕方ない。あの男だって、俺がいない間星七さんと恋人でいられたんだ。キスだってしただろうし、…こうやって触ったりもしたんだろうし」 ズボン越しに触ると、星七さんが目を閉じながらビク、と体を揺らした。 「…やめて…片桐君」 涙を流し続ける彼を見て、俺は眉間に皺を寄せる。 「なんでそんなに泣くんだよ。あの男がそんなに大事か」 「…当たり前じゃん…」 「俺より大事だって言うのか」 彼は涙を手で拭いながら、そんなこと言ってない、と悲しげな声で言った。 俺は床に手を付きながら、泣き続ける彼を見下ろし、唇をかみ締め、眉をしかめる。 「……俺は星七さんのために海外にも行って、地位を得た。喧嘩だって誰にも負けない自信がある。あの男より、俺の方が星七さんを守れる」 「何……なんの話し?……俺のため?」 「ああそうだ。全部、全部星七さんのためだよ。やっと…… やっと俺は、――あなたを守れる力をつけた」 上から彼を見下ろし見つめながら話す。 星七さんは目元に手を置いたまま、は…と乾いた声で笑った。 「冗談やめてよ……」 星七さんがどこか自嘲気味に笑って口を開く。 「俺、…片桐君に地位なんか求めたことないし、…守ってもらおうと思ったことなんて、一度もない」 目元に置いていた手をずらし、濡れた瞳を開けた星七さんが、俺を見上げた。 「…そんな事のために、離れたって言うの?」 そんなこと……? 俺は床をついた手に力を込めながら、憤りさえも感じる目で彼を見下ろす。 「………じゃあどうすれば良かった。あのまま、何も持たないままの、ただの不良でしかなかった、…あの頃のままの俺で良かったとでも言うのかよ!」 「――うんそうだよ!」 星七さんが叫ぶように言った。 俺は驚きに目を大きく見開き、下に横たわる彼を凝視する。 涙を含んだその瞳が、揺らぐことなく真っ直ぐに俺を見返していた。 「…あの頃の片桐君は、………優しかった…。あたたかかった」 潤む目を横へと移しながら、星七さんが小さく赤い唇を動かして話す。 「俺は何も、なにも求めてなんかいなかった……。片桐君さえいてくれたら、片桐君が隣にいてくれさえしたら、…ただそれだけで良かったんだ……」 彼の話を聞きながら、俺は床に手をついたまま、まるで縫いつけられたかのように体を動かせなくなる。 目の前に映る彼の瞳から、絶えず涙が零れていく。 呆然と硬直する俺の前で、星七さんが口元を小刻みに震わせながら、言葉を紡ぐ。 「……俺はただ、 片桐君に、…そばにいて欲しかったんだよ………」 閉じられた彼の瞳から、一筋の涙がゆっくりと…静かに、頬を伝って流れ落ちていく―― ……信じていた。 この道を歩き続ければ、幸せが訪れると。 胸に信じて…一度も、振り返ったりはしなかった。 大切なものを、守ろうとしていた。 どうしても譲れなかったものを。 彼を悲しませることになっても、彼が一瞬の間、他の誰かのものになると分かっていても、それでも。 ……それでも、守るために、彼と離れた。 もう二度と失わないために、同じ過ちを繰り返さないために、…彼を置いていった。 笑い合える、そんな世界を信じて。 俺は涙を流し続ける彼を見つめながら、あの男の言葉を思い出す。 『俺はいつもあいつをそばで見てきたし、支えてきた、……見守ってきた!』 俺じゃなくて、…あの男の方が、正しかったっていうのか。 俺が間違っていたと、そう……。 そうか、そうか……。 「片桐君……?」 俺は口元を歪ませて笑う。 そうだな。本当に…その通りだな。 俺はいつも、彼を悲しませることしかできないのかもしれない。 俺と関わったせいで、彼は義兄に襲われ、俺のため何度も悲しみ、涙し、傷付いた。 俺は、彼を笑わせることはできないのかもしれない。 ……俺じゃ、彼を、 幸せにできないのかもしれない……… 俺はすっとその場を立ち上がる。 「待って、片桐君」 後ろから星七さんが声をかけてくる。 「どうしたの……」 「…」 「“どこに、行くの……?”」 どこ……… 俺は彼の、そんな簡単な質問に答えられない。 ……何処だろう。 どこに行けばいいんだろう。 …分からない……。もう、何も。 ドアノブを掴み、ゆっくりと下に向かって下ろす。 ただひとつ分かるのは、 これ以上、俺は彼のそばにいてはいけないということ。 きっと…俺は彼を不幸にさせることしかできない。 俺はあの男のように、普通に生きることはできない。 俺と…星七さんは、釣り合うことが、できないのかもしれない―― ……彼を、手放そう。 悲しいけれど、きっとそれが正しい答えなんだろう。 彼を幸せにできる、唯一の方法なんだろう。 …解放しよう――彼を。…俺から。俺たちから。 俺は振り返らずに告げる。 別れの言葉を、彼に向けて。 「………さようなら……星七さん」 彼から背を向けて、ドアを開けて外へと出た。 歩き続けて見えた世界は、幸福とはほど遠い、灰色で、どこまでも冷たい、――孤独だけが広がっていた。

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