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141.闇(片桐side)

梅雨の湿った夜風が、肌を冷たく撫でていく。 足を踏み入れた暗がりの倉庫の窓はひび割れ、辺りに雑に散らばったガラス片が月光を鈍く反射している。 ………月が綺麗だ。 ひび割れた窓から見える歪んだ月を目に映しながら、柄にもないことを胸に抱いた。 俺は静かに、視線を窓からすぐ下へと移した。 倉庫の奥、壁を背に地べたに片膝を立てて座るのは、俺の義兄だった。 いつも整然と正していたスーツを汚し、顔を俯かせた彼は、体を揺らし微かに息をしているのが分かる。傍らには彼の眼鏡が落ちている。 俺は彼の前まで歩き、やがてゆっくりと屈むと、彼の少し乱れた黒髪を掴んで上にあげる。 義兄は、それに薄ら顔を歪ませながら、俺を睨みつけた。 「まだ元気そうですね」 彼の顔には、らしくない傷跡がいくつもつき、口端からは血が流れ出ていた。 「まだやりますか?」 彼から手を放し立ち上がると、背後にいた数人のうち、ひとりの雇われの男に声をかけられる。 「…いや、いい」 俺は言って、広い暗がりの倉庫内を歩いた。コツコツと歩く自分の足音だけが響き渡る。 「兄さん、俺ずっと……苦しかったんですよ」 月の光だけが差し込む喧騒とは隔離された空間で、俺は静かに口を開く。 「あなたに嫌がらせを受け続けて反抗しなかった俺に、あなたは手を緩めるどころか、さらに追い討ちをかけるように、俺を殺そうとした…」 言いながら義兄の前で足を止め、立ち止まる。 顔を下に落とす彼の左胸に靴を押し当てる。 踏み込んだ靴の下から、押し潰される骨の感触が微かに伝わってくる。 「ずっと……見逃してやってたのに………」 俺は義兄を強く睨みつけながら言った。 「あんたを負かす方法なんていくらでもあった。プライドの高いあんたに、ダメージを与える方法なんて腐るほど」 「……」 「だけど、あんたがそこまでして俺を追いやりたいなら、別にそれでもいいと思った。俺は別にあの家にこだわりなんてなかったし、敷かれたレールを歩くのも嫌だった。 でも…… あんたは俺のものに手を出した」 話しながら、俺は視線を一度下に落とす。 悲しみに暮れる彼の姿が、一瞬、頭をよぎった。 俺は義兄から足を離し、床に転がる鉄パイプに手を伸ばす。刃物とは違う、冷たく鈍い光を帯びていた。 「だからまず――権力を得ようと思った。あんたを超える権威を持てば、あんたのプライドはへし折ることができるし、こうやって、人を使ってあんたを痛めつけることだって容易い」 鉄パイプの先を義兄に向けながら話す。 依然として頭を垂れる彼を、静かに見つめ見下ろす。 「そして、力を得れば…… 大切なものを、……守れると思った」 自分の声が、冷えきった倉庫に無情に反響する。 …そのために、ここまで駆け上がってきたつもりだった。 信じて進み続けてきた。 ……けれど。 守ろうとしたものは、俺の元から、いとも簡単に離れていった。 胸の奥で、まだ完全に消えきっていなかった、誰かの啜り泣く声が聞こえた。 「……あんたには、ここで死んでもらいます。 俺を幾度となく殺そうとし、彼にまで手を出した。それだけで、理由は十分なはずだ」 視界一面を、暗く淀んだ世界が覆い尽くす。 既に渦巻いていた、激しい憎しみと憤りの感情が、心の内をさらにどす黒く、隅々まで蝕んでいくのを感じる。 鋭い殺意が――俺の胸の内を襲う。 「あんたが俺をずっと邪魔だったように、俺もずっと、……あんたが邪魔だった」 「…」 「もっと早く、……こうすれば良かったんだ」 いくつものナイフで突き刺された、傷だらけの心臓が、血を流しながら、どくどくと音を立てて脈動する。悲しみが何倍もの憎悪の形となって、俺を地の底から引き起こす。 ……結局、歩き続けた先に、幸せなどなかった。 信じていた未来は、訪れなかった。 境目の見えない暗い海の地平線の先には、果てしない闇が、続いているだけだった。 すべて、失ってしまった。 母も、彼も、…何もかもを。 大切にしていたものを。 ……大切にしたかったものを。 …もう……… 全部、 どうでもいい…… 心の空に、光が差し込む兆しは――ない。 どこまでも続く暗雲の下、俺は今も尚変わらず、行く宛てもなく彷徨い続けている。 『大丈夫ですか…?』 遠い記憶の中で、俺を見つめる誰かの声がこだまする。 そっと耳を澄ますと、遠くの方から、足音が聞こえた気がした。 確かに聞き覚えのある柔らかな音が、俺の元へと、…近付いてくる。 ……だんだん迫ってくる。 ――いや、そんなはずがない。 きっと、ただの気のせいだ。 俺は澄ましていた耳を閉ざし、目を閉じる。硬く冷たい凶器を強く握り締める。 もう、追い求めていた光は、…この手から、零れ落ちてしまった。 俺は閉じていた目を、静かに開ける。 何ひとつ目に映らない虚空な世界の中で、 月光を受け、鈍く光るそれを、 彼に向かって静かに振り下ろした―― 鉄パイプがゆっくりと義兄へと落ちるその刹那、 背後から声がした。 「…片桐君――!」 殺伐とした場を切り裂く、突然の声音。 俺は無意識的に動きを止め、静かに後ろへと振り返る。 薄暗い倉庫の中。 月明かりに照らされ、息を乱しながらも真っ直ぐに俺を見つめる、“彼の姿”があった。

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