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144.差し込む光(片桐side)

倉庫から少し歩いた先。もう使われていない小さな倉庫があった。 錆びついた壁の裏手にまわりこみ、コンクリートの段差に腰を下ろす。 煙草の匂いが染みついた鉄板が、ひんやりと背に当たり冷たかった。 … 『母さんっ!』 『壮太郎、危ないからあっちに行ってなさい』 『母さん俺、大きくなったら俺が母さんを守るよ。だから、…もう少しだけ待ってて』 ……何故、あのとき母が、 俺の台詞を聞き困ったように笑っていたのか、ここに来てようやく、分かった気がした。 恐らく彼女は、ずっと前から知っていた。 “俺では、守れないことを”。 俺では、どうにもできないという事実を……。 曇天の夜空から、ぽたぽたと、小雨が降り注ぐ。 辺りは暗く、雨に濡れる景色が暗がりの中ぼんやりと広がっていて、自分が今どこにいるのか、よく分からなかった。 ただ体は生きていて、悲しくも息はしていた。 俺はふと、斜め右へと視線を移す。 両親を失い、孤児になり、あの家に拾われ、育て親の元でバイオリンを弾く幼き少年の姿が映る。 …あれは俺だった。 すぐ左に視線を向けると、仲間を引き連れて目的もなく歩く、煙草を口にくわえる茶髪の男の姿が映る。 ……あれも俺だった。 ―『いいか、よく聞け。あの人たちは、“お前そのもの”が好きなわけじゃない。欲しかったのは、使える子ども。――ただそれだけだ』 義兄の言葉が蘇る。 いつからか、自分が誰なのか、何者なのか、…俺は徐々に分からなくなっていった。 ここに居るはずなのに、誰も俺を見てくれてはいないような気がして、…自分が分からなくなった。 ……誰も“俺を”見てくれない。 俺を、愛してくれない……… 俺は、あの男のように普通には生きられない。 彼を守るどころか、…何度も傷つけた、悲しませた。 俺じゃ駄目なんだ。 普通に生きてこられなかった俺では、彼を泣かせることしかできない。 きっと、苦しませることしか……。 冷たい雨が体を打ちつける。 もう、どこを歩いたらいいのか分からない… 何を頼りに進めばいいのか、分からない。 どこにも“光”が、……見えないんだ――― 「…片桐君」 大切なものは、いつも俺の手をすり抜けていく。 俺は、彼女も、…彼も、守れない。 …いつだって。 近づいてきた彼が、俺の前に膝まづき、俺の体をそっと抱き寄せる。 あたたかな感触に、俺は大きく目を開けたまま、ぴくりとも身動きが取れなかった。 「ごめん……。……俺いつも、自分のことばかりで、片桐君のこと、気にかけてあげられなくて……」 彼は耳傍でそう話すと、短い沈黙のあと、感情を抑えたような、微かに震えた声で言った。 「片桐君……もう、やめよう……。 お兄さんのこと、辛いけど……許してあげよう……」 囁きかけるような彼の声に、俺は開いたままの自分の目に、何かが浮かぶのを感じた。 『お父さんのこと、…許してあげて』 ――過去の彼女の声が、不意に呼び覚まされるように脳裏をかすめる。 守れなかった過去。どうしても、守りたかった過去。 それらが、傷だらけの胸に痛々しく蘇っていく。 瞳から、打ち付ける冷たい雨水と混ざって、生暖かい何かが頬を伝っていく。 …憎かった。 絶対……許せなかった。 母に、手を上げる父親を。 俺を執拗に付け狙い、彼にまで手を出した、義兄のことを。 ……でも、本当は違う。 一番許せなかったのは、それらをいつも止められなかった、守ってこられなかった……自分自身だった。 両目から――堰を切ったように、堪えきれない涙が溢れ出す。 憎しみや悲しみ、…後悔の感情が、目から雫となって溢れ、次々と零れ落ちていく。 憎かった…… 憎かった…… どうしても、許せなかった……っ… 涙を流すたび、心の奥深くにあったしこりが、不思議とみるみるうちに、静かに姿を消していく気がした。 解き放たれていく……。 長い間抜け出せなかった、過去の呪縛から、暗闇から……。 光が、だんだん見えてくる―― 「俺……片桐君が好きだよ… ずっと、全部、どの片桐君も、……大好きだよ」 モノクロだったはずの世界が―― ……鮮やかに、色付き始める。 冷えきっていたはずの心が、あたたまっていく。 胸に抱いていた、激しい憎しみや憤りの感情が、まるで浄化されるように、徐々に薄れてゆく。 俺は瞳を閉じ、涙を零す。 …彼という存在が、いつも、俺を突き動かす。 明るい道が、行き先を示すように、視界に開けていく。 立ち込める暗雲で覆われていた心の空に、眩い光が差し込んでくる。 柔らかな希望の光が、ずっと待ち焦がれていた、俺の胸の奥深くまで…隅々と照らし、余すことなく降り注いでくる―― 俺は彼のぬくもりを確かめるように、きつく抱き寄せる。 ……もう、間違えない。 もう二度と、手放さない。 今度こそ……愛する人を、大切な人を、俺はこの手で、…守り抜いてみせる―― 降りしきる雨の中、俺は震えを帯びた手で、彼の体を抱き締め続けた。

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