147 / 151
147.収束
あの雨の日から数日後。
俺はある人に呼ばれて、カフェに出向いていた。
曇っていた空から柔らかな日差しが差し込み始める中、前の席に座るいつも通りスーツを着た彼は、視線を伏せながらコーヒーを飲んでいる。
「あの…玲司さん。体、大丈夫ですか?」
まだ顔に薄く傷跡を残す彼を見て、思わずそう尋ねる。
「ああ、平気だ。見た目ほど酷くない」
玲司さんはその後、コーヒーをかちゃりと静かに置いてから、俺を真っ直ぐに見つめた。
「…俺は恐らく、お前のことが好きなんだと思う」
突然の彼の台詞に、飲んでいたジュースを噴き出しそうになった。
え……?
玲司さんは皮肉げに笑う様子もなく、ただそっと視線を俺から逸らす。
俺は程々にザワつく店内で、ごくり、唾を飲んで、膝の上に両手を置いた。
「あの、俺…」
一瞬目を泳がせてから、
「すみません」
小さくそう言って、頭を下げた。
「俺……彼が好きなんです」
「……」
「俺、片桐君のことを、………“愛してるんだと思います”」
俺は頭に彼のことを思い浮かべながら、言葉を連ねる。
顔を上げると、玲司さんの瞳は切なげに伏せられていた。
「あと、ずっと言いたかったんですけど」
俺はそんな彼を見つめながら、そっと声をかける。
「玲司さんがずっと見ているのは、俺じゃなくて、片桐君なんじゃないですか?」
玲司さんのコーヒーカップを持つ手が、微かに揺れた。
「確かに、片桐君はすごいけど… だけど俺、玲司さんには、玲司さんにしかない魅力があると思います」
「……」
「それを知っていたから、片桐君はあなたを恐れていたし、あの大きな家にも、引き取られたんじゃないかな、って」
玲司さんは俺から顔を伏せたまま、黙っている。
俺、偉そうに言い過ぎてないかな。
彼に、上手く伝わってるといいけれど……。
「つまり、何が言いたいかって言うと…
――片桐君がいてもいなくても、玲司さんがあの家から追い出されることは、絶対にないと思います」
一瞬の沈黙のあと、玲司さんは俺の話に、ふ、とほんの少し口端を上げて薄く微笑んだ。
「ああ…えっと、すみません。俺、勝手なことばかり言って」
「だが、もう遅い」
玲司さんが睫毛を伏せながら言う。
「これまでのことを思えば、…あいつのことを思えば。俺と彼の関係が修復することは、到底有り得ない」
「……そうかな」
俺は正面に座る彼の姿を目にしながら、ぽつり、口を開く。
「彼は今でも、本当はあなたと、仲良くなりたいと思ってるんじゃないかな」
「…なぜそう言い切れる」
なぜ……。
俺は玲司さんを見つめ、頭の中に“彼”を思い浮かべた。
多分、それはきっと。
――『星七』
「…そうだったら、いいなって」
俺はかつて親友だった彼のことを思い出しながら、瞳を閉じて、小さく口元を綻ばせた。
玲司さんと別れたあと、俺はすっかり晴れ渡った空の下、河川敷を歩いていた。
穏やかに流れる川を、しばし立ったまま眺めていると、やあ。と見知った声が降りかかる。
振り返った先には、黒い格好をした彼の姿。
「黒崎さん」
黒崎さんは、いつもと変わらない笑みを浮かべ、ひとり立ち尽くす俺の元へと歩み寄った。
「…終わったね。これでようやく」
俺の隣に立つと、黒崎さんは俺と同じように流れる川を見つめながら言った。
「俺からもお礼を言わせてくれないか」
おもむろに振り返ると、柔らかな笑みをたたえた黒崎さんが俺を見ていた。
「本当に、ありがとう」
いつも飄々とした雰囲気を身に纏う彼からの、まっすぐな感謝の台詞に、俺は気恥ずかしさから、目線を泳がせる。
黒崎さんはそんな俺を見て、くすりと微笑んだ。
「君は、彼らの救世主だね」
黒髪さんが、何気なく声を落とす。
……救世主?俺が?
「…まさか。大袈裟ですよ」
「――黙って俺の言うことを聞き入れなさい」
目を逸らす俺の頭に、ぽん、と黒崎さんの手が置かれる。
顔を上げると、黒崎さんが慰めるような表情で、俺を見ていた。
「君を襲った件もあるし…流石にあの2人が仲良くなることまでは難しいかもしれないけど。それでも、以前よりは関係が良くなるはずさ」
何だかそんな気がしているよ。
黒崎さんは目を閉じながら、ほのかに口元に笑みを浮かばせ、優しくそう語った。
「君はもっと、誇ったっていいんだ。
君が、……“彼らの命を救った”のさ」
ふいに届いた黒崎さんの言葉が、消えない胸の傷跡に、そっと優しく染み渡る。
俺は、隣から穏やかに微笑む彼の視線を感じながら、思わず瞳からこぼれ落ちそうになる何かを、顔を上へとあげて、懸命に堪え続けた――
…
「俺の家はね、所謂“裏の仕事を担う家系”で、片桐さんの家とは昔から古い付き合いがあるんだ」
黒崎さんは川の方を見ながら、落ち着いた口調でそう話し始めた。
「片桐さんたちの父親であり、世界を動かす巨大企業を担ってきた神代家の現当主、神代さんの指示を受けて、俺はこれまで影で動いてたってわけ」
本当は、あまり話しちゃいけないんだけどね。
黒崎さんは俺の方へ振り向いて、にこ、とさり気なく微笑む。
「…俺は立場上、ほとんど彼らを見守ることしかできなかった。だから、君には本当に感謝しているんだ」
いいえ。
俺は黒崎さんに向け、そう言いながら首を横に振る。
「黒崎さんの話がなかったら、俺は…きっと彼を止められなかった」
彼の心に抱えるものに、きっと気付けなかった。
「だから、俺の方こそありがとうございます」
すると、
「……俺は君に、お礼を言われるような人間じゃないさ」
黒崎さんはそう言って、少し寂しそうな笑顔を浮かべて俺を見た。
「ごめんね」
黒崎さんはそして、少しの間黙った。
やがて、緩やかに流れる川の向こうへと目を向けながら、黒崎さんがうんと軽い伸びをした。
「さて。そろそろ行かなきゃね」
黒崎さんが体ごと俺へと振り向いた。
俺は黙って、彼を見上げた。
「君にはまだ、“やるべきこと”があるようだ」
まるで、全てを見透かしているかのような漆黒の目に見つめられ、俺は瞳を微かに揺れ動かす。
俺は、下ろしていた手のひらをぎゅっと握った。
「大丈夫。きっとすべて……上手くいく。そうだろう」
落ち着いた、確かな彼の声色に、俺は深く頷いた。
「――健闘を祈ってる」
背を向けて歩き出し、片手をひらひらと振る彼の後ろ姿を、俺はしばらくの間、黙って見送った。
俺は踵を返して、再び長い河川敷の道を歩く。
間もなくすると、目線の先で――ベンチに腰掛けて俺を待つ、彼の姿を見つけた。
俺に気付き、ベンチからスっと立ち上がる昔馴染みの彼が、眼鏡越しに俺を見つめるのが分かる。
俺は彼を前に、震える足を踏ん張って立たせる。
手に少量の汗を握り締めながら、彼に向かって足を一歩、また一歩と進ませ、近づいていく。
……これまでたくさんの傷を負わせてしまった彼と、俺は今日、向き合わなければならない。
ふっと空を見上げた先。
そこには、“あの夏の日”を思い起こさせるような、梅雨に似つかわしくない太陽が、静かに俺を見下ろしていた。――
ともだちにシェアしよう!

