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147.収束

あの雨の日から数日後。 俺はある人に呼ばれて、カフェに出向いていた。 曇っていた空から柔らかな日差しが差し込み始める中、前の席に座るいつも通りスーツを着た彼は、視線を伏せながらコーヒーを飲んでいる。 「あの…玲司さん。体、大丈夫ですか?」 まだ顔に薄く傷跡を残す彼を見て、思わずそう尋ねる。 「ああ、平気だ。見た目ほど酷くない」 玲司さんはその後、コーヒーをかちゃりと静かに置いてから、俺を真っ直ぐに見つめた。 「…俺は恐らく、お前のことが好きなんだと思う」 突然の彼の台詞に、飲んでいたジュースを噴き出しそうになった。 え……? 玲司さんは皮肉げに笑う様子もなく、ただそっと視線を俺から逸らす。 俺は程々にザワつく店内で、ごくり、唾を飲んで、膝の上に両手を置いた。 「あの、俺…」 一瞬目を泳がせてから、 「すみません」 小さくそう言って、頭を下げた。 「俺……彼が好きなんです」 「……」 「俺、片桐君のことを、………“愛してるんだと思います”」 俺は頭に彼のことを思い浮かべながら、言葉を連ねる。 顔を上げると、玲司さんの瞳は切なげに伏せられていた。 「あと、ずっと言いたかったんですけど」 俺はそんな彼を見つめながら、そっと声をかける。 「玲司さんがずっと見ているのは、俺じゃなくて、片桐君なんじゃないですか?」 玲司さんのコーヒーカップを持つ手が、微かに揺れた。 「確かに、片桐君はすごいけど… だけど俺、玲司さんには、玲司さんにしかない魅力があると思います」 「……」 「それを知っていたから、片桐君はあなたを恐れていたし、あの大きな家にも、引き取られたんじゃないかな、って」 玲司さんは俺から顔を伏せたまま、黙っている。 俺、偉そうに言い過ぎてないかな。 彼に、上手く伝わってるといいけれど……。 「つまり、何が言いたいかって言うと… ――片桐君がいてもいなくても、玲司さんがあの家から追い出されることは、絶対にないと思います」 一瞬の沈黙のあと、玲司さんは俺の話に、ふ、とほんの少し口端を上げて薄く微笑んだ。 「ああ…えっと、すみません。俺、勝手なことばかり言って」 「だが、もう遅い」 玲司さんが睫毛を伏せながら言う。 「これまでのことを思えば、…あいつのことを思えば。俺と彼の関係が修復することは、到底有り得ない」 「……そうかな」 俺は正面に座る彼の姿を目にしながら、ぽつり、口を開く。 「彼は今でも、本当はあなたと、仲良くなりたいと思ってるんじゃないかな」 「…なぜそう言い切れる」 なぜ……。 俺は玲司さんを見つめ、頭の中に“彼”を思い浮かべた。 多分、それはきっと。 ――『星七』 「…そうだったら、いいなって」 俺はかつて親友だった彼のことを思い出しながら、瞳を閉じて、小さく口元を綻ばせた。 玲司さんと別れたあと、俺はすっかり晴れ渡った空の下、河川敷を歩いていた。 穏やかに流れる川を、しばし立ったまま眺めていると、やあ。と見知った声が降りかかる。 振り返った先には、黒い格好をした彼の姿。 「黒崎さん」 黒崎さんは、いつもと変わらない笑みを浮かべ、ひとり立ち尽くす俺の元へと歩み寄った。 「…終わったね。これでようやく」 俺の隣に立つと、黒崎さんは俺と同じように流れる川を見つめながら言った。 「俺からもお礼を言わせてくれないか」 おもむろに振り返ると、柔らかな笑みをたたえた黒崎さんが俺を見ていた。 「本当に、ありがとう」 いつも飄々とした雰囲気を身に纏う彼からの、まっすぐな感謝の台詞に、俺は気恥ずかしさから、目線を泳がせる。 黒崎さんはそんな俺を見て、くすりと微笑んだ。 「君は、彼らの救世主だね」 黒髪さんが、何気なく声を落とす。 ……救世主?俺が? 「…まさか。大袈裟ですよ」 「――黙って俺の言うことを聞き入れなさい」 目を逸らす俺の頭に、ぽん、と黒崎さんの手が置かれる。 顔を上げると、黒崎さんが慰めるような表情で、俺を見ていた。 「君を襲った件もあるし…流石にあの2人が仲良くなることまでは難しいかもしれないけど。それでも、以前よりは関係が良くなるはずさ」 何だかそんな気がしているよ。 黒崎さんは目を閉じながら、ほのかに口元に笑みを浮かばせ、優しくそう語った。 「君はもっと、誇ったっていいんだ。 君が、……“彼らの命を救った”のさ」 ふいに届いた黒崎さんの言葉が、消えない胸の傷跡に、そっと優しく染み渡る。 俺は、隣から穏やかに微笑む彼の視線を感じながら、思わず瞳からこぼれ落ちそうになる何かを、顔を上へとあげて、懸命に堪え続けた―― … 「俺の家はね、所謂“裏の仕事を担う家系”で、片桐さんの家とは昔から古い付き合いがあるんだ」 黒崎さんは川の方を見ながら、落ち着いた口調でそう話し始めた。 「片桐さんたちの父親であり、世界を動かす巨大企業を担ってきた神代家の現当主、神代さんの指示を受けて、俺はこれまで影で動いてたってわけ」 本当は、あまり話しちゃいけないんだけどね。 黒崎さんは俺の方へ振り向いて、にこ、とさり気なく微笑む。 「…俺は立場上、ほとんど彼らを見守ることしかできなかった。だから、君には本当に感謝しているんだ」 いいえ。 俺は黒崎さんに向け、そう言いながら首を横に振る。 「黒崎さんの話がなかったら、俺は…きっと彼を止められなかった」 彼の心に抱えるものに、きっと気付けなかった。 「だから、俺の方こそありがとうございます」 すると、 「……俺は君に、お礼を言われるような人間じゃないさ」 黒崎さんはそう言って、少し寂しそうな笑顔を浮かべて俺を見た。 「ごめんね」 黒崎さんはそして、少しの間黙った。 やがて、緩やかに流れる川の向こうへと目を向けながら、黒崎さんがうんと軽い伸びをした。 「さて。そろそろ行かなきゃね」 黒崎さんが体ごと俺へと振り向いた。 俺は黙って、彼を見上げた。 「君にはまだ、“やるべきこと”があるようだ」 まるで、全てを見透かしているかのような漆黒の目に見つめられ、俺は瞳を微かに揺れ動かす。 俺は、下ろしていた手のひらをぎゅっと握った。 「大丈夫。きっとすべて……上手くいく。そうだろう」 落ち着いた、確かな彼の声色に、俺は深く頷いた。 「――健闘を祈ってる」 背を向けて歩き出し、片手をひらひらと振る彼の後ろ姿を、俺はしばらくの間、黙って見送った。 俺は踵を返して、再び長い河川敷の道を歩く。 間もなくすると、目線の先で――ベンチに腰掛けて俺を待つ、彼の姿を見つけた。 俺に気付き、ベンチからスっと立ち上がる昔馴染みの彼が、眼鏡越しに俺を見つめるのが分かる。 俺は彼を前に、震える足を踏ん張って立たせる。 手に少量の汗を握り締めながら、彼に向かって足を一歩、また一歩と進ませ、近づいていく。 ……これまでたくさんの傷を負わせてしまった彼と、俺は今日、向き合わなければならない。 ふっと空を見上げた先。 そこには、“あの夏の日”を思い起こさせるような、梅雨に似つかわしくない太陽が、静かに俺を見下ろしていた。――

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