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第1章②そのノートに、君がいる
LUALAハウスでの共同生活が始まって、数日が経った。
朝のリビングには、トーストの焼ける香りが広がっていた。
冷蔵庫の開閉音、瞬のくしゃみ、高さんの「あ、ジャムねーじゃん」という声。
それらが折り重なるようにして、LUALAハウスの一日が始まっていく。
篠原は、マグカップを両手で包みながら、ソファの端に座っていた。
「……あれ、陽くんまだ?」
奏の声に、全員の視線が階段に向く。数秒後、ようやく上の方で足音がした。
降りてきた陽は、髪の左半分だけがふにゃっと潰れていて、Tシャツは前後が逆、靴下も揃っていない。
でも、本人はまるで気にしていない様子で、もそもそと椅子に座り、眠そうにコーンスープを口に運んだ。
「……起きては、いるんだな」
高さんがぼそっと言い、瞬が笑いながら「今日もやべえ状態で来たな」と茶を吹きそうになる。
「陽くん、Tシャツ前後ろ逆だよ」
奏の指摘にも、「……あ、ほんとだ」と小声で返すだけで、陽はまたスープに集中していた。
──やることは真面目。でも、朝だけは全然だめ。
前から知ってたけど、こうやって毎日一緒にいると、ギャップの落差がすごい。
……なのに、なんでこんなに堂々としてるんだろう。
無自覚に、印象に残る。だから──困る。
――――――
陽には、掴みどころのないところがある。
朝みたいな抜けている一面もそうだけど、それ以上に、どこか人と違う空気をまとってる感じがする。
静かで、透明で。けれど見ようと思えば、あちこちに感情がにじんでいる。
声や目線じゃなく、呼吸や姿勢のなかに。
一緒の部屋で過ごすようになってから、それがますますよくわかるようになった。
夜になると、彼はノートに向かう。
机の上にそっと開いた、黒い表紙のノート。ペンの音だけが、部屋の中に流れている。
それはもう、何度も見てきた光景だった。
オーディションの期間中から、陽の「ノート」は存在感があった。
最初は誰も気にしていなかったけど、審査を重ねるごとに、トレーナーや他の候補生も、ノートに向き合う陽の真摯な姿勢を応援し、答えを探す手伝いをするようになっていった。
センターに選ばれたときも、驚きはなかった。
寧ろ、ようやく報われたって思ったくらいだ。
陽は、自分が理解できない感情に対しても、逃げない。
それを知ろうとして、まっすぐに言葉を選ぶ。
そんな人が、真ん中に立つのは、ちゃんと意味があると思った。
……その姿に、俺はいつからか、目を奪われるようになっていた。
――――――
その夜も、彼はノートを開いていた。
机の上のスタンドライトが、小さな明かりを落とす。
ページにはびっしりと文字が並び、そのなかに貼られた歌詞カードのコピー。あちこちに矢印やメモが書き込まれていた。
「……また、書いてるんだ」
風呂上がりの俺が背後から覗き込むように声をかけると、陽は顔を上げずに「うん……なんか、書かないとわかんなくなって」と答えた。
その姿は、少しだけ苦しそうにも見えた。でも、諦める気配はなかった。
「……頑張ってるな」
そう言った俺の声には、余計な感情も演技もなかった。ただ、思ったことを、そのまま出しただけ。
陽は少しだけ手を止めて、ページをめくり、それからゆっくりペンを走らせた。
『否定がないのは、嬉しい』
『しのの言葉には、あたたかさがある』
急に綴られた自分の名前に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
文字になると、陽の想いが、形になったみたいで。
それが、自分に向けられているなんて──ちょっと、反則だ。
思わずノートから目を逸らす。
「おい、今は歌詞についてだろ」
「……あ、そうだった」
イタズラが失敗したように笑った陽は、また歌詞カードのページに戻って、うんうんと頭を悩ませ始める。
そういうとこ、ズルいんだって。……ほんと。
「……しのって、ちゃんと聞いてくれる人なんだなって、思った」
突然、陽がぽつりと呟いた。
俺は、なんでもないふうを装って「そっか」とだけ返した。
でも、本当は。
その言葉だけで、一日分くらい気持ちが満たされた気がしていた。
――――――
陽のノートには、言葉が溢れていた。
迷いも、探しものも、願いも。
そこには、まだ誰も──陽自身すら知らない、“君”が静かに息をしている。
そしてその片隅に──俺の名前が、あった。
名前を書かれただけ。たったそれだけのことなのに。
どうしてこんなに、胸の奥が騒がしくなるんだろう。
どうしてこんなに、心を動かされるんだろう。
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